第二十章 無意味な偽物
あのことがあってから、Sの声が聞きたくなってしかたない。会いたい。その気持ちは罪滅ぼしなのか好意なのかわからない。たぶん罪滅ぼしなのだろう。すぐにこの切ない気持ちは消えてしまうんだろう。
でも、抱きしめられてキスされたのは、全身の何十億もの細胞すべてが奮い立つようにうれしかった。ささやかれたかすれ声を、まだ耳の奥が閉じこめておぼえていた。そのときは酔ってたから気持ちよかっただけだったけど、思い返すと胸がきゅっとなって、恥ずかしさに頬が熱くなった。
胸が痛い。痛くて涙が出る。どうしよう。どうすればいいのだろう。
彼に事実を話してしまおうかとまで考えた。自分の過去のことを洗いざらい、すべて。でもだめだ。彼に負担をかけることになるから。こんな話を受け止めてもらうなんて、ずうずうしいにもほどがある。自分が救われるだけじゃないか。
からだのことなんてどうでもいいと思うのは、変なことなのだろう。安全でさえあればいいというのはまちがっているのだろう。
やっと、彼の顔をまともに直視することができるようになったのに。正面から目を合わせることができるようになったのに。
だって怖くないことだから。何でもないことだから、たいしたことじゃないから。やってしまえばどうということないから。ちっとも。痛いことも怖いこともないから。一度肌に触れられれば、胸がきしんでやけつくような不安と警戒から逃れることができる。安心する。それまでは怯えて目も合わせられなかったのがうそのように。
彼とはキスしてもソレ以上のことをしてもいいけれど、むしろした方がいいかも知れないけれども、彼を傷つけるだけだ。あの朝のひとことがあっただけで、慶を避けるようになったくらいだ。
きらわれたのかと考えると悲しみが押し寄せてくる。
それとも、慶が拒まない受身の性格だから深入りしないようにとSは考えているのだろうか。ほんとうの慶は、ちっとも受身ではない。していいのだったら積極的にする。ただし恋人どうしにならないという条件つきで。
もしSと付き合うことになったら、今まで求愛してきたのに慶が断ってきたひとたちはどうなるんだろう。Sとどこがちがうんだろう。世界にひとはたくさんいるのに、どうしてひとりを選ぶことができるのか、慶にはわからなかった。
悩みに一段落をつけたくて、もう一度Sのアパートを訪れた。
もやもやとしたすっきりしない気持ちに決着をつけるためだった。けれど、ほんとうはきらわれたくないという一心だったのかもしれない。
最初から、つりあわないとわかっていた。それでも、このまま終わらせたくはなかった。
彼になでられるのは、気持ちがよかった。
指先は的確に慶の部位をなぞっていき、どうしても声がもれてしまった。
涙ぐんで焦点のあわない目をあけると、視線がぶつかった。
いつも、ことの最中にはほとんどまぶたを閉じているので、少し恥ずかしくなった。
「変な顔してない?」
そう聞いた。
「すごく色っぽい顔してる」
お世辞だ、だってそんなはずないんだから。しわが寄るほど眉をしかめて、だらしなく口を開けてる、いやらしい、醜い表情を、できるだけ彼から隠した。
photo:mizutama
家に帰ると、Nがパソコンの前に座って写真の整理をしていた。慶は背後から、両腕をNに回した。日常茶飯事のスキンシップ。
恋愛感情のあるなしで、感じ方がどうちがうのか、確かめなくてはいけない。
慶にほんとうの気持ちよさを教えてくれたのはNだ。それをはじめて体験したときは、何の前触れもなしに突如あらわれた快感にびっくりして、衝撃のあまり理性が消えてしまった。夢中になり、からだが自然に動いて快楽をむさぼるのをとめられなかった。そんな感覚を経験するきっかけをくれたことに、非常に感謝していた。自分がいなくなったら、Nはどうやって欲望を処理するのか、慶は心配になった。
そんな懸念もいつしか目の前の圧倒的な快楽に飲みこまれた。
愛情のこもったキスもささやきも何もないのは、いつものこと。終了したら、ふたりともすぐ日常の自分に立ち戻るのも。
彼が先にシャワーに立ち、慶は枕に顔をうずめ眉を寄せてためいきをついた。Nが相手でも気持ちがいいのはどういうわけなのだろう。これでは判断できないではないかとひとり途方に暮れ、ひどく困り果てることしかできなかった。