ふるふる図書館


第十九章 突きつけられる異質




photo:mizutama

 しばらく前に、彼、Sの視線の異質さに気づいた。
 じっと見つめるまなざしがすこぶる居心地悪くなって、慶はいつもうつむいていた。誘われてふたりで食事をしても、真向かいに座った彼と目を合わせることができず、緊張のあまりしょっちゅう箸からおかずを落としては赤面した。
 慶のそういった狼狽ぶりを、Sがいとおしそうに眺めるのが常だった。ちがうのに、Sが思っているような人間じゃないのに。慶には胸のうちでしか弁解できなかった。
 当たらなくていいのに予感は意地悪にも的中し、ついに、好きだから付き合って欲しいと打ち明けられた。
 途方に暮れた。Sにはわからないようだった、慶には恋愛感情が欠落していることが。
 そんなものは、別にいらないものだ。恋人がいないからといって困ることなどない。むしろうっとうしいだけ。
 なぜ、慶のことにかまおうとするのか。好きだと言われても、どう反応すればいいのか慶には皆目わからない。
 慶も相手のことは好きだった。だけども、Sの「好き」と慶の「好き」はちがうらしいことは明白だった。
 友だちと恋人はどこがちがうのか。どこが境界線なのか。キスや、その先の行為をすれば恋人なのだろうか。その線引きは、もちろん慶には意味がない。
 愛なんて、知らない。わからない。だから、そっとしておいてよ。怖いから。不安で肌がひりひりするから。こころをえぐられるから。届かないのを承知で慶は、祈るように念じる。
 どうして告白を断るのか、理由を聞かれても答えようがない、受ける理由がこれといってないのと同じで、拒む理由も特にない。あえて挙げるなら、気乗りしないから。そんな返答はまかり通らないだろうから口をつぐまざるをえなかった。
 以前、恋愛についてふたりで話をしたことがあった。
 浮気は絶対に許せない、とSは言った。好きな人が、いかなる理由があっても、ほかの人とからだの関係を持つのは耐えがたいときっぱり告げていた。
 そのことばを聞いて慶は理解した。ああ、自分とは全然ちがう。事情なんて人それぞれ、千差万別だ。こころとからだの乖離はすでに経験している、何度も。こころとからだはことあるごとに裏切り合い、出し抜こうと企み、置き去りを目論んでいる。だから、絶対に許せないなんてふうには慶は考えつきもしないのだ。
 それなら、よけい、慶は彼の求愛を受け入れることはできない。Sは慶が腹立たしさもおぼえないほどにまともで、嫉妬に駆られもしないくらい幸福な人種、慶がとうに締め出しを食らい扉の鍵すら与えられていない世界の住人だ。
「このままでいようよ、それじゃだめなの?」
 相変わらず視線を避けたまま、慶は問いかけた。
 今の関係のままでじゅうぶん楽しいのに、どうして、それを崩そうとしたがるのか。
「おれのことがきらい?」
「そうじゃないよ」
「きらいなんでしょう」
「ちがうよ」
「じゃあどうして。好きな人がいるってわけ」
「いないよ。誰も」
 誰ひとり。
「じゃあやっぱりおれがいやなんだ」
「いやだったらこうして会ったりしないでしょう」
 慶は正直に答えた。二者択一を迫られ問い詰められる理由がわからない。いけないことをして責められてでもいるようだ。明確な理由がなければ悪者にされてしまうのだろうか。
「わかった、じゃ、恋人になってくれなんて言わないから、また一緒に遊びに行ったりしてくれる?」
「それはもちろん」
 慶はほっとしてうなずいた。よかった、わかってくれたとうれしかった。
 そんな話をしていたら、慶はすっかり終電を逃してしまい、Sのアパートで飲み明かすことになった。
 彼と大学の同級だったときから、そんなふうだった。
 慶は、彼と飲みながら話をするのがほんとうに楽しかった。たとえたわいのないことでも。話題は尽きなかったし、Sは自分の知らないこともよく知っていたし、価値観のちがいすらおもしろくてしかたなかった。Sが慶へ向けるまなざしを変える前に戻れたようで、慶はのびのびとくつろいだ気持ちになれた。酒も進み、心地よい酔いがふんわりとまといついた。
 アルコールと疲労と時間帯のせいで睡魔に襲われた慶は、まぶたをごしごしこすってどうにかやりすごしていたが、とうとう数秒だけ、まぶたを閉じてしまった。
 唇に、何かやわらかいものが触れた。
「んんー?」
 幼児がぐずってむずかるような声が鼻から出た。
 瞳をあけないでいると、また口づけされた。ついばむみたいなキス。慶はおとなしく体をもたせかけていた。身もこころもふわふわした。
 ぎゅっと抱きしめられた。甘いような、せっぱつまったような、辛抱できないような、切ないような声が耳もとをかすめた。
「好きだよ。ああ、どうしよう、すごく好き」
 あれ、なんだか気持ちがいい。だいぶ酔ってるのかな。
「一緒のふとんで寝てもいい? いや?」
 質問に、やっぱり幼児のように素直に首をふった。
 唇をかるく触れ合わせたまま、ときおり彼が角度を変えて、慶もそれにならいながら、ふたりして眠りについた。
 変だ。やっぱりすごく気持ちがいい。こういう感触が、好きなんだな、きっと。大事にされているような気分になれるから。
 つらつらと思いを巡らせる間も与えず、心地よい腕が眠りの世界にひきずりこんでいった。

 朝を迎えた。
 目をあけると、すぐ隣でSがにこにこしながら機嫌よく慶を見つめていて、慶にかるく唇を触れた。
 寝起きのすっきりしない頭で、慶はほんとうに久しぶりに彼の顔を真正面から見返し、おはよう、と少しかれた声であいさつした。
 慶のからだを抱き寄せて、Sがささやいた。
「やっとこういう関係になれたね」
 思いがけない台詞に、慶はきょとんとした。
「え。どういう関係? 何も変わってないのに」
 昨夜確認したばかりじゃないかと思って、慶はごくあっさり、自然に応じた。
 しかし、相手は顔をこわばらせた。
「そうなの……?」
 うめくなり慶から離れ、しばらく黙りこんでしまった。
 しまった、気を悪くさせてしまった。慶は遅まきながら自分の失敗を察して、ごめんと謝った。
 それでもなおSが無言を貫きとおしているので、何度もごめんねと言った。ちゃんと拒否すればよかったのに、ほんとうにごめんなさい。
 そうか、キスするのもひとつの寝床に入るのも、特別な関係じゃないとしないのか、とようやく悟った。
 気持ちよかったんだけどな。酔いも、キスも。
 恋というものがわからないせいなのか、人を傷つけてばかりいる。いったいどうしたらいいのだろう。ただ困惑することしかできない。今までは慶がSの目から瞳を逸らしていたのに、あべこべに、Sは慶と視線を合わせようともしないでいる。
 Sの反応がまともな人のものなのだと気づいて唇をかむ。やっぱり自分はふつうでないのだと痛感する。ふつうの世界で、ふつうの人と、ふつうの付き合いができない自分になったのだと実感させられる。顔をそむけたままのSがその事実を引きずり出して慶の鼻先に突きつけている。
 本気の恋愛をすれば、恋人以外の人間と寝る気はなくなり、晴れてまっとうな身の上になれるのかもしれないが、慶には恋愛感情がない。そういう手段で更正する道は絶たれている。
 どうすればいいのかわからない。

20051024, 20080323
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