ふるふる図書館


第十八章 人形の意志




photo:mizutama

 慶があるとき読んだ雑誌には、性的暴力の被害に遭った人は、二種類の道を歩むという話が書かれていた。
 ひとつは、男をまるで受けつけられなくなる。はじめての恋人ができたばかりのときの、慶の状態だ。
 もうひとつは、まったく逆だという。それは、いやな体験を上書きしたいため。忌まわしい体験の記憶を拡散させたいがため。現在の慶の状態だ。
 ああいう行為は、好きな人とだけするものだなどと、もしそう決めてしまえば、慶は自分の人生を真っ向から否定することになってしまう。Iとのあの夜によって。
 だから今、恋人以外とでもするのだ。数多く。そうすれば、自分を守れる。傷を少しは軽くできる。
 たいしたものじゃないんだ、恋人じゃなくてもできるんだと言い聞かせなくては、慶はあっけなく壊れるだろう。
 人形みたいに自分を扱えればいいと願っていた。どんなことがあっても、どんなめにあわされても、顔色ひとつ変えず動揺することもない存在になりたいと。冷ややかな人形の肌や瞳になりたかった。
 そんな憧憬を持っていたころより、今のほうが多少なりとも近づけたような気がする。まるで知らない男に迫られても、ぶざまにうろたえることなどなくなった。だけど。
 理想の姿になりつつあるはずなのに、ちっとも満足感を得られなかった。
 ときめきやら、ういういしさやら、瑞々しさやら、そういった大切なものを失ってしまってものたりないだとか。麻痺して鈍感になっているだとか。取り返しがつかないものを捨てたのではないかとか。むなしさにためいきをつくのは、ないものねだりなのだろう。
 自分が選んだことなのだから。後戻りも後悔もしない。できない。許されない。

 一緒にファミリーレストランに行った行きずりの人とは、行きずりで終わった。
 地方から出張してきたそうで、ふたたび慶の前に現れることはなかった。
 携帯もメールも無視したら、来なくなった。
 慶ちゃん、さびしそうだね。おれが守ってあげるよ、一生。絶対に裏切らない。幸せにするから。愛してる。などと口説きながら抱きしめてきた人。別れ際にも、同じ内容の台詞を口にした。
 初対面の人間に、勘違いもはなはだしい。もし、この童顔と愛想に勝手にだまされたのだとしたら、本当にばかだ。
 ためらいも惜しげもなく、男を満足させる技巧をおひろめしてしまったから、地味で平凡で純朴げな外見と、中身は異なるのだと気づいてくれただろうか。かえって喜ばせただけかもしれないけれど。
 アルバイト先で、自分にちょっかいをかけてくる客が多いことに慶はようやく気づいてきた。そういう場所で働くのは、むしろ慶の望みにかなっていた。意に染まないことを強要されたとき、上手にあしらえるようになりたかった。そのためには、観察し、情報を得、傾向と対策を練り、経験を積めばいいと考えた。一種の鍛錬だ。
 しかし、未然に防ぐことでなく実践だけが上達しているように思えてならなかった。なんだかうまくいかないものなんだなあ、ばかだなあ、と慶は自分をときどき無性に笑ってみたくなる。

20051023, 20080316
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