ふるふる図書館


第十七章 ぶしつけな欲望




photo:mizutama

 背後から声をかけてきた人の顔にみおぼえがあると思えば、今夜の客の一人だった。
 レジを締めて、かたづけをして、帰りのしたくをして慶が出てくるまでけっこうな時間が経過していたのに、まだ店の近くにいたのかと慶は怪訝に思った。
「今終わったところなんだね。おなかすいただろう、一緒に食事に行かない?」
「いえ、そんな」
 慶は戸惑った。
 歳のころは三十代前半といったところだった。少々なまりがあって、それが素朴な印象を与えていた。それだけで善人と判断することは、田舎で生活していた慶にはできないのだったが、少なくとも悪い人ではないという感じはした。
「ほらおれって、垢抜けないしださいし田舎っぽいし、若い子をたぶらかすようには見えないだろ?」
 慶の心を見透かしたかのように客は言い、慶は思わず笑った。
「田舎育ち自慢だったら、負けない自信はありますよ。関東限定だったら」
「まさか。いかにも都会の子って感じなのに。おしゃれでさ」
 それこそまさかだと慶は内心思った。慶が着ているコートは至ってシンプルなデザインで、何年も愛用している。決して流行にのっとったものではない。ジーンズもスニーカーも安物だ。そのふつうっぽさが、とっつきやすいのかもしれなかったが。
 なんにしても、相手は酔っ払いだ。お世辞を真に受けるほど純粋ではないが、かといって客を邪険に袖にするのもためらわれた。しつこく強引に誘ってくるのも閉口だ。食事だけなら、慶はといささか投げやりにうなずいた。

 連れて行かれたのは、二十四時間営業のファミリーレストランだった。
「遠慮なく食べなよ」
 すすめられるものの、あまり食欲はわかなかった。
「慶ちゃんは、小食なのかな」
 突然、「慶ちゃん」などと呼ばれて慶は眉を寄せた。
「だからそんなに細いんだね」
 触るな。ぴったりと横に座るな。
 慶はからだをずらそうとしたが、うまくいかなかった。
「あの。今手に何かかたいものが当たったんですけど……?」
「ベルトのバックルだよ」
 嘘をつくな。位置がもっと下だったじゃないか。やっぱり端からそういう目的だったんだと、慶はげんなりした。
 客は饒舌だった。食べることに集中するふりを決めこみ、慶は無理にサラダを口に入れては咀嚼した。もう、絶対におごってもらおうと決心を固めつつ。
 客はやたらスキンシップを図ってきた。やめてくださいと慶が言えばおとなしく手を離すが、でも顔はしまりなく笑ったままだった。完全に酔っ払いだ。
「監視カメラに映るでしょうが。この店、今度から来れなくなっちゃうでしょう」
「平気平気。ここ死角だからさ」
 信憑性に乏しい言い訳をするその表情は、全然めげていなかった。
 慶はトイレに立った。用をすませ、手を洗って出ようとすると目の前に彼がいて、慶らしくもなくぎょっとしてしまった。
 個室に連れこまれ、口をふさがれた。舌を入れるなよ、と慶はむっとしながらこころのなかで毒づいた。唾液でぐちゃぐちゃになるようなやりかたは、からだのどこでも、相手が誰でも好きではない。むしゃぶりつくみたいにむさぼられるのも、唇に限らず、性に合わない。べとべとしたものは苦手だ。
 性急な手が、慶のジーンズにかかった。
 広いしきれいだし誰もいないのは確かだけどさ、ここでですか。気がかりなことがあると、ちっとも集中できないし、それに何より、どうしてほとんど縁もゆかりもない人間に裸をさらして、あまつさえ欲望を迎え入れなきゃならないんだ。ほとほとうんざりしてきた。
「脱いでください」
 慶は、相手のベルトに手をかけた。そうだ、誓ったんだ。しかけられるくらいなら、こっちからしかけてやれって。そうすれば傷つくことなんかない。
 しゃがみこんで口にくわえた。想像よりも嫌悪感がわかなかったことにほっとした。見たいものでもないから、ずっとまぶたを閉じてはいたけれど。
 慣れた方法で、相手の解放を導いた。こういうことは、常日ごろから同居人にほどこして腕をみがいているのだ。
 本人が語っていた通り、そうされた経験があまりないようで、すぐさまのぼりつめていった。よかった、長びかなくてすみそうだ。
 相手の手が、時おり慶を強くさすったりつかんだりした。相手にとっては愛情表現のつもりなのだろうか。痛くてまた顔をしかめたが、せっかくの盛り上がりに水をさしては元の木阿弥だとがまんした。
 ことがすむと、つい先刻までのしつこさがけろりと消えて、解散の流れになった。満足して憑き物が落ちたのだろう、なんてわかりやすいのだと呆れながらも慶は安堵した。
 一人暮らしなのかとたずねられ、友達と住んでいると答えると財布からお札を抜いて渡してくれた。
「これで、お友達に飲み物でも買ってあげて」
 得してしまった。帰りが遅くなって不審を抱かれてあれこれ詮索されないよう、もので釣れってことだろうかと慶は考えた。
 もちろん真相はNに話すことはない。叱られるにきまっている。
 食事も一回浮いたし、よかった。
 Nは、慶と同じ部屋に住むようになって家賃と光熱費が浮いたといって、アルバイトを辞めてしまったのだ。どちらも折半なので安く上がるにはちがいないのだが、貯金が多少あるだけの、完全に無収入な人間を住まわせるのは非常に心もとない。だからなるべく節約しようと慶は決めていた。
 彼の収入が安定するまで、部屋を引き払うことができない。どこにも行けないのだ。

20051023, 20080316
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