第十章 はじめての恋人
慶の精神は、あのときに、壊れたのかもしれない。傷ついている自分と、全力でその事実にふたをしようとしていた自分。拒絶していた自分と、快楽をおぼえていた自分。まっぷたつに裂かれてしまい、もう戻らなくなってしまったらしい。
テレビドラマで、女性が暴行されるシーンを見るたび、慶の目から涙がぼろぼろと落ちた。感情も理性も追いつかないほど素早く、からだはそれらを置き去りにして涙を流し嗚咽をこぼした。記憶が風化していっても、そのくせはなかなかなおらなかった。
あのとき、泣くことさえできなかったのに。どうして、今ごろ。
慶の脳裏に、子どものときの光景がしばしば、まざまざとよみがえる。
「お母さんなんてきらいだ! どうせほんとのお母さんじゃないじゃないか!」
母とけんかしてひどいことばを投げつけた自分。悲しそうな表情を浮かべる母。
自分は、どんなにまわりの人を傷つけてまわったんだろう。だから。
もう決して、誰かにきらいだなんて言わない。拒むことなんて絶対にしない。
慶は、自分の身を人形のように扱いたかった。誰も傷つけない、誰からも傷つけられない存在。誰に何をされても、どんなに踏みにじられ、壊され、辱められ、蹂躙されても、顔色ひとつ変えずこころを痛めることもない、完全に客体化した人形になりたかった。
なのに、アルバイト先で客に罵倒されては落ちこみ、Iに襲われたときも抵抗して、挙句傷ついて。自分がこんなに自我が強いとは思わなかった。いらないはずのプライドがこんなにあるなんて思わなかった。どんなに大事にしたところで、どんなにしがみついたところで、プライドなど、ちっとも慶を救ってくれやしないのに。
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「恋ってどういうものか、よくわからないです」
話題が恋愛になっていたので、慶は正直に言った。
仕事を終えた夜、会社の先輩とふたりで居酒屋にいた。五歳年上のAはやさしく、慶を見る目があたたかく、慶は警戒せずに安心して、胸のうちを打ち明けることができた。
「でも、誰かとつきあったことはあるだろう?」
問いに慶はかぶりをふった。
「じゃ、その。別に答えなくてもいいんだけど。経験も……?」
束の間ためらう慶に、Aはあわててつけたした。
「ごめん、変なこと聞いて」
「いえ。去年、はじめてしました。でも、無理やりで。それ以来そういうことしてないから、もしまたすることがあったら、自分がどうなるか全然わからないんです。受け入れられるのか、拒絶するのか」
なるたけ淡々と話すように慶はつとめた。
「ごめん」
「いえ。いいんです。答えたくなかったら話しませんから」
「でもさ、きっと好きな人ができるよ。そうしたら、受け入れられるようになるよ」
励ましてくれるAが、慶は好きだった、それが恋と呼ぶものかどうかは不明だったけれども。
だから、そのすぐあとに好きだと告げられたときも、ほとんど躊躇することなしに糸がほどけるようにするりと、自分もそうだと応えた。
告白するのをさんざん迷っていたというAは、ほっとした顔で慶を抱きしめながら、こうしていると犯罪みたいだなと笑った。いまだに高校生に見られる慶と、二十代後半の自分とでは釣り合いが取れないと思っていたのだと。
そんなの関係ないと慶は言った。
彼の唇が、慶の唇につけられた。
これが、この人の味なんだ、と慶は不思議な気持ちにおちいった。アルコールがまじった味。あたたかくてやわらかくて、ふんわりした感触だった。
一日に何度も口づけされていくうちに、感触は慶を刻みつけ、存在をおぼえさせた。
日曜日、Aの車でドライブに行った。
車を目立たないところに停めて唇を重ねられた。そうしながら、彼の手が慶の体に触れた。
慶は息をのんだ。侵入してくる彼の大きな手を両手で必死につかんだ。慶の目から涙があふれた。のどがしゃくり上げた。
彼がおどろいて謝っているのがかろうじて耳に届いた。ちがう、ちがうと否定しながら、慶は彼の腕にしっかりしがみついたまま、嗚咽した。そんな姿に自分でもびっくりしたが、感情はとどまってくれなかった。小一時間も号泣した。
「ごめんなさい。ちょっと、思い出しちゃったみたいで……」
ようやく落ち着いた慶は、目元をぬぐって力なくうなだれた。叫びつづけたせいで、声帯がひどく痛んだ。
慶の髪をなでながら、Aが言った。
「ねえ、これからホテル行こうか?」
「えっ?」
「絶対にやさしくするから。慶がいやになったらやめるから」
さんざん逡巡したが、結局、慶はその提案を受け入れてしまった。はじめて入る場所の雰囲気にのまれて、気恥ずかしく、ずっとうつむいていた。
そこでは、ベッドの上で軽くじゃれあう程度で終わった。それでも、肌と肌をしっかり密着させるのはどうにも照れくさく、相手のことを見るにも目のやり場に困り、終始及び腰になってしまった。
そんなみっともない姿に彼は幻滅したのではないか、慶はものすごく心配になったが杞憂のようだった。
Aは、この日をきっかけに、次第次第に慶の体を慣らそうとしていた。
だが彼の努力もむなしく、慶の体はかたくなに開くのを拒む硬いつぼみのままだった。
申し訳なくて、彼が触れたらなるべく甘い声を出すようにつとめた。
慶は敏感なんだね、と彼はうれしそうに言った。それは当たっているかもしれない、少し指がかすめただけで恥ずかしいほど意識が翻弄されるし、陸に上がった魚のように体が跳ねた。少しでも強く扱われると不快になるくらいだった。
気持ちよくないのに、それでも声を出していると、なんだか自分が滑稽に思えてきた。かといって、自分から彼に何かをすることもできず、ただひたすら奉仕されているのに反応も返さず黙っているのも後ろめたかったのだ。
いつまで、こんなばかばかしくておかしなことがつづくんだろうと、慶は相手の重みに揺られながらぼんやり考えた。