ふるふる図書館


第九章 終焉の幕開け



「慶、慶」
 唐突に下の名前を呼ぶ人だ。それまで苗字で呼んでいたのに。
 いつまでもしつこく繰り返す。どういうリアクションを取るべきなのかさっぱり思いつかない。しかたないから、「はい」と返事をした。
「慶」
 まだ呼ぶ。
「なんですか」
「手をどけて」
 不承不承従った。
 腕は二本しかないのに、どこを隠したらいいのか皆目見当がつかなくて、慶は顔ばかり覆っていた。顔がわからなければ、慶個人の裸体ではなくなるだろうという心理が働いていたらしい。必死にそんなことをしていたのだから、滑稽だ。
「こっちを向いて、顔を見て」
 相手のいやらしい顔つきを見たくなくて、慶はずっとまぶたをしっかり閉じていた。こういうときの表情が官能的で悩ましくて色っぽいだなんて、どういう感性ならそう思えるのか、まったくもってわからない。慶には相手がひたすら醜かった。
 醜いものはきらいだ。こんな状況でもなお、叫んだり悲鳴を上げたり罵倒したりできないのは、自分が汚くなるのがいやだからかもしれない。理性を手放したくなかった、本能にまみれるのがこわかったからかもしれない。
 苦い丸薬を飲みこむような覚悟で、おずおずと、しかし思い切って言われたとおりにした。
「慶、可愛い」
 自分がどんな表情だったのか、想像もしたくなかった。
 どのくらい時間がたったのだろう。なすすべもなく、慶は裏返されたり表にされたり、木偶みたいに扱われていた。快感は特になかったはずだが、Iが慶の体の変化をいちいち報告するので、一応生理的な反応はしていたらしい。聞くに堪えない単語を織り交ぜ、時おり慶にも口にするよう促しながら。
 それだけ長時間、丁寧に丹念にほぐすようにされれば、そうなるだろうどうしても、と慶はさめた気持ちでいた。
 ふと、攻撃がゆるんだ。
 あ、もう終わりかな。
 というのはぬか喜びだった。
 おかしな体勢をとらされた。
 えっ。これってまさか。嘘、なに、ここまでするわけ?
 衝撃を受けて、本能的に、やみくもに暴れた。下半身への未知の痛みよりも、おどろき、焦燥、恐怖というものがまさっていた。まだそんな気力と体力が残っていたのが意外だった。といっても、慶の力など、たかが知れていたのだけど。
 相手はそれ以上慶を侵食しようとせず、あっけなく離れた。
 なんだ、途中でやめられるんじゃないか。
 ティッシュを持ってきて、慶の体を拭いた。シーツを見てはじめて、自分が出血したことがわかった。つながれたまま暴れたせいだったのかもしれない。
 先端が少し触れただけだと思いたかったが、入れられたという事実は何よりも白布を染めて咲く赤い花が証明していた。これ以上ないほどしっかりと。
 呆然とするよりも投げやりになった。
 なんだか、もう、どうでもいい。面倒くさい。
 これ以上なにかを守ろうなんて、徒労に終わるだけだ。もう考えない。考えないことにする。
 提案されて、一緒にシャワーを浴びた。
 先ほどよりは、ためらいも羞恥心も感じずにすんだ。シャワーノズルを出血したところに当てられて、丁寧に洗われても。
 ドライヤーを借りて、髪を乾かした。
 服を着て、ふたりで外に出て、駅まで歩いて送ってもらった。
 慶は鼻歌まじりだった。帰りの身じまいをしているときから、常になく饒舌だった。なぜか、しっかりと相手の目を見て話ができた。
 流血したくらいであっけなくやめてしまったIがおかしかったのかもしれない。慶の態度はきっと気味悪く映っただろうが、意に介さなかった。妙に晴れやかな気分だった。やわらかすぎてくせがあり、慶をてこずらせる髪も、こんなときに限って、うまくきれいにまとまった。
 歩きながら、何度も、慶が好きだ、つきあってほしいと言われた。慶はにっこり笑顔を返して、陽気に「そんなはずないでしょう、冗談ばかり」とかわした。どう考えても、本心のはずがありえないのだから。
 ふたりでいるところを誰かに見られでもしたらいやだなあとは考えたが、こんな夜に知人に会うこともないだろうと、楽観した。
 自宅に着いたときも、自分でも不思議なほど平然としていた。
 平常心で、ベッドに入った。
 それはそうだよ、だってこれしきのことで傷つくわけないんだもの。なんでもないことなんだもの。ふつうの態度でいるに決まってるじゃないか。
 傷ついていない。ちっとも傷ついてなんかいない。いつもどおり。いつもどおりだ。

 よく考えれば、まぎれもない暴行だ。相手にそういう意識は、きっとまるでないだろうけども。
 ありがちなドラマでは、夜道をひとりで歩いていて見知らぬ輩に襲われて、服をやぶかれる女性とか。密室で迫られた後、はだけられた服を押さえながら走って逃げ去る女性とか。
 経験者になってみれば、リアリティがないと思う。
 視聴者にわかりやすくするために、そんな神話を再生産しているのだろう。
 実際は、知人に室内で、という被害ケースが非常に多いのに。ちょうど慶のように。ほかの人はどうかしらないが、慶は身がすくんで、走って逃げ去ることなんかできそうになかった。
 世の中には、なんて身勝手な妄想が蔓延しているのだろう。
 痴漢に遭っても声を上げられなかったり、意にそまぬ相手に迫られても毅然と拒めずにいたり、そういう態度はいやがっていない証拠だと捉える人間が、なんて多いことだろう。男女問わず。
 表面的なことで決めつけるのはまちがっている。いやがる態度をとれない事情や精神状態だってあるかもしれないのに。
 あきらかな事件性があるわけではない、慶が遭遇したようなことは、誰からも同情されないのだろう。のみならず油断した慶に原因がある、きっぱりとはねつけなかった慶が悪いということで世間に片づけられるのだろう。
 ちっとも、たいしたことじゃないからだ。
 このあと、慶はアルバイト先でIと顔を合わせる機会があっても、顔はおろか目も合わせられなくなってしまった。
 おかしいな、なぜだろう。
 ことの直後は、自分らしくもなく、異常なくらい視線をちゃんと合わせることができたのに。不思議だ。どうしても、精神が、からだが拒否をする。避けようとする。逃げようとする。
 慶はIに黙ってアルバイトを辞めた。連絡先を知らせずにいたのは幸いだった。Iの前から完全に姿を消した。



photo:mizutama

20051013, 20080126
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