ふるふる図書館


第十一章 あなたのための別離



 はっと目をさますと、Aの車の助手席にいる自分がいた。
 夜のコンビニが視野に入った。車は駐車場に停まっていた。慶の家に近く、何度も行ったことのある店のはずだが、まるで異世界のようにぼんやりとしていた。どうして自分はこんなところにいるんだろう?
 右に視線を移すと、運転席にいるはずのAの姿がなかった。
 覚醒しきっていない頭でぼうっとしていた。暗く静かな海の底にたったひとり放り出されたみたいだ。あやふやでこころもとなくなった、世界も、自分の感覚も感情も、存在すべてが。世界との境界線もおぼつかずあいまいで、自分はこのまま拡散し、溶解していくのではないかと思えた。
 運転席のドアが開いた。
「起きた?」
 コンビニの袋を提げたAがたずね、フルーツジュースを手渡してくれた。
 慶のために買いものに行くのにドアを開閉した音で起こされたのだ、と慶はおぼろげに悟った。
 まったく状況がつかめていない慶に、Aが説明してくれた。仕事の後の会社の飲み会で、トイレに立った慶がいつになっても帰ってこないので、心配になって見に行くと床に倒れていたのだということだった。
 アルコールで記憶や意識を飛ばしたことのない慶はおどろきのあまりしばらく声を失った。おそるおそる質問を体外に押し出した。
「……ちゃんと、服、着てた? 変な格好、してなかった?」
「だいじょうぶだよ。そこでなんとなくおひらきになった。今、慶を車で送ってきたところだよ。もう平気? なんともない?」
「ごめん……ごめんなさい。ごめんなさい。迷惑かけて」
 慶はまたしても、彼の前で子どもみたいに声を上げて泣き出してしまった。おそらく、まだ酔いが抜けていなかったのにちがいなかった。
 せっかく、飲み会だからAのためにおしゃれをしてきたのに。みっともなく倒れるなんて。今また、みっともなく泣きじゃくってるなんて。自分が情けなくてたまらないと、よく聞き取れない声で訴え、ごめんなさいと幾度も謝りながら、ひとしきり泣いた。
 Aが慶を抱きしめてきた。涙で濡れるから、と身をひこうとするのを許さないくらい力が強かった。
「慶の家に泊まっていい?」
 いきなり脈絡のないことを聞いてくるのが不思議だったが、よく考えも回らず、慶はうなずいていた。

 相手の重みを感じながら裸の背中をシーツにつけるとき、なんともいえない思いが胸を満たした。
 うれしいような、悲しいような、楽しいような、切ないような、恥ずかしいような、安心するような、くすぐったいような、落ち着くような、複雑な気持ち。
 しかし、不自然な体勢で肢体を絡めあうのはやはり滑稽で、慶はいつも目を固く閉ざしてしまう。
 自分よりはるかに大人のはずの相手の、子どもじみたせっぱつまった声にも、愛しさよりも滑稽さがつのった。
 ほんとうは、慶はこういう行為が好きじゃないのかもしれない。そう……。
「!」
「だいじょうぶか?」
 ひどく痛くて、受け入れることがうまくできないでいれば。
 苦痛をこらえて、それでもなんとか笑みを浮かべた。
「いいよ、つづけて……」
 つらくても、これは相手のため、ひいては自分のためでもあるのだと信じた。
 入れれば気持ちいいなんて、世間で言われていることなど、ちっとも信用できないでいた。まったく鈍感な部位だ。どのくらい入っているかもまるでわからなかった。
 呼吸が乱れ、声がもれた。相手のは快楽のため、慶のは激痛のため。
 全部入ったと教えられた。ベッドと体がやたらきしんだ。
 相手の動きが止まると、慶は気絶するようにぐったりと意識を手放して眠りこけた。
 次に目がさめたとき、Aはもう服を着ていた。自分ばかりがまだ全裸なのを、慶は恥じた。なぜひとつひとつ、この世から消え去りたくなるような羞恥を感じなくてはならないのだろう。身がもたない。慣れることなどほんとうにあるのだろうかとあやぶんだ。
 浴室に行こうとベッドを出たら、足元がふらついて、よろけて、くずおれそうになった。
 なんとかシャワーを浴び、身づくろいをして、Aを送るためにふたりで外に出た。
 太陽に照りつけられ、体が芯を失ったみたいにぐらぐらとした。寝起きのせいだろうか。それとも貧血なのかと考えていると、顔をのぞきこまれた。
「真っ青だよ、具合が悪いのか?」
「ううん、そんなことないよ。気をつけて帰ってね」
 笑ったものの、慶は、自室に戻るなりばったりと倒れてしまった。全身からすべての力が抜けたようで、指先ひとつ動かすことができない。
 そうか、酒を飲んで倒れたのも、もともと体調が悪かったせいなのだ……。そこを、昨夜、彼を受け入れようと無理したからだ。
 ようやく合点がいき、ぶざまにずるずると床を這い、どうにかベッドにもぐりこんだ。高熱の出たからだを横たえ、死体になったようにまる一日寝こんだ。
 もちろん、Aには体調のことを伏せた。話せるわけがないと思った。よけいな気を遣わせたくなかった。抱かれることがこんなに苦行だなどと知られたくなかった。



photo:mizutama

 Aとの仲は、長くつづかなかった。
 慶よりも前に、彼とつきあっていた女がいた。彼はとうに縁を切ったと思っていたらしいが、彼女にとってはそうではなかった。
 慶のことをどこかで知り、中傷したり、自殺未遂を起こしたりした。
 だから慶は、彼と別れた。会社も辞めた。
 Aは、慶が別れようと切り出したとき、こう言った。
「ほかに好きな人でもできたのか?」
 そんなはずはない。そのことばにものすごくおどろいたし、裏切られた気持ちになったし、悲しい気持ちにもなった。
 彼が、彼女のことに気を取られて、慶のことをまったくかえりみなくなったから別れるのだ。彼女の入院先に詰めて、彼女の両親に会って、それは大変なことだろう。だからといって、慶と会わず、連絡も取らず、電話にも出ずに無視しつづけるのは、ちがうと思った。
 自分だけを大切にしてくれなんて言わない。縛りつけるつもりはない。
 でも、自分との現在と未来より、彼女との過去を選ぶというのなら、慶は彼とさようならをする。そのほうが、お互いのためだ。また彼女が何かを起こしたとき、彼は彼女のほうに行ってしまうのだろうから。それに、慶は彼女から逃げない覚悟をしていたのに、過去を受け入れ立ち向かう決意をしていたのに、先に放棄したのは彼だ。
 彼女への贖罪のために慶とのつながりを絶つだなんて言い訳は、慶を踏みにじっていた、聖人面をして。
 慶から見たら、Aは大人だった。自死をはかった彼女も大人だった。大人でも逃げるのだとわかった。いや、大人だからこそ逃げたのだろうか。
 彼は追いすがることをしなかった。慶の気まぐれだとでも考えたのかもしれない。
 慶に対する想いはその程度だったのだ、見栄や世間体を優先して慶を切り捨てるような。
 むしろせいせいしたこころで、慶はAの前から姿を消したのだった。

20051014, 20080127
PREV
NEXT
INDEX

↑ PAGE TOP