ふるふる図書館


第八章 打ちのめすやさしさ



 大学を卒業して上京した慶は、夜はアルバイトをしていた。小さな会社に就職したものの、所得が低すぎて暮らしがままならないことがわかったからだ。
 本業のほかに副収入があることを隠すため、さほど仕事を選ぶことができなかった。慶がこっそりと勤めていたのは、バーだった。その場で現金で給料を支払ってもらえるのはありがたかったが、いずれ生活が落ち着いたら辞めるつもりだった。
 内向的で、口下手で、要領が悪く、人付き合いも少なく、接客業は未経験だった慶がとびこむには覚悟のいる世界だった。
 慣れない一人暮らし、慣れない東京暮らし、慣れない新社会人生活をこなすことに必死で、休息時間もじゅうぶんに取れず、ストレスはたまる一方だった。バイト先でいやな思いをすることも数知れない。そのたびにひどく落ちこんだ。
 週末の夜だった。
 仕事のかけもちでくたくたに疲れていたところに、客に難癖をつけられ、身もこころも重くねっとりとした泥のように沈んでいた。帰り支度をして店を出て、とぼとぼとうつむきがちに歩き出した。
 呼び止められてふりむいた。よく慶の面倒をみてくれていた、十歳以上も年の離れた先輩アルバイトのIだった。
「元気ないな。またへこんでるんだろう」
「いえ……」
「まあ、さっきの客はひどいよな。悪いのは客のほうなんだから、気にするなよ。な。これからうちで飲まないか。景気づけに」
「……いえ。もうこんな時間ですから」
「明日は土曜で休みだろ。うちはだいじょうぶ、一人暮らしだからさ。遠慮するなよ。発散したいだろう」
 断りきる気力も理由もなく、誘いに応じることになった。
 Iのマンションに来るのははじめてだった。その緊張感と、アルコールに弱くないという体質もあって、慶はほとんど素面のままグラスを傾けつづけた。慶がすすめても、Iもそれほど飲まなかった。
 それでも、愚痴をきいてもらい、少し気持ちが軽くなった。
 人の家へ訪問するのはあまりこころが安らぐものでもないが、強引な誘いに乗って正解だったのかもしれない、と伏目がちにグラスをもてあそびながら考えた。
 不意に視界が暗くなり、額に何かが当たった。なんだろう? といぶかしんでいると、それは今度は口に移った。
 おどろいて、目をつぶるどころか見開いて、声ひとつ立てられなかった。
 箇所がどこにしろ、まるっきりはじめてだったので、ちっともわからなかった。キスの感触というものが。
 怒りをおぼえるというよりも、自分が突然放りこまれた事態にただただ呆然としていた。
 笑いをこらえるようなIの声が聞こえた。
「もしかして、経験なし?」
「ないです」
 よほど経験豊富に見えたのかと思うと、情けないものがある。二十歳をすぎて経験がないのも、およそ胸を張れるものではないのかもしれないが。
 経験がないことを申告すればやめてもらえるだろうというのは、甘い考えだったことをすぐさま察知した。
「えっ、なに、いやだ」
「大声出さないで。ここは壁うすいから、隣に聞こえちゃうよ」
 むしろ聞こえたほうがいい。慶はしばらく、抵抗する旨を声を大にして主張したが、さっぱり聞き入れてもらえなかった。
 あざやかな手つきで、いつのまにか慶の着衣は剥ぎ取られてしまった。
 逃げるべきだろうか、でも、どうやって?
 裸で外に飛び出すわけにはいかないし、服を着ている間につかまるのは目に見えている。
 第一、ひとりで帰れるような場所ではない。
 横っ面を張り飛ばすべきだと思うのだが、慶は相手に遠慮してしまった。今までの関係を壊したくないとどうしても気を遣ってしまった。
 もうこの時点で関係は崩れているのだが、こういうときの心理は我ながらまったくわからなかった。修復したい、まだできるはず、だってこんなの、冗談か悪ふざけなのかもしれない、こちらがむきになったら本気になったらお終いになる、そういうことを思っていたのだろうかとは、ずいぶんあとになって考えたことだ。
 どうしてもいやなら、どんなことをしても逃げるだろうと思う人が大多数なのだろう。だから慶の行動は、「その気があった」ということにされるのだ。世間的にもそうだが、相手も都合よく勝手にそう解釈する。どんなに慶がいやだと言ってもだ。恥じらいだと思われるのが関の山だ。
 慶の抵抗をおさえるのに全力ではなかったことが、慶の自尊心をずたずたにひきさいた。力の差は歴然だった。懸命にあらがったところで、相手に興を添える以上のものではないと悟り、恐怖も加わって力が急速に萎えた。
 いっそのこと、乱暴に手ひどく扱われたほうがよかったのかもしれない。
 力づくでねじふせられたら、かなり屈辱的なことではあるが、悪いのは一方的に相手のほうだと自分を納得させることができるから。
 徹頭徹尾やさしかったふるまいは、慶を敗北感で残酷に打ちのめした。
 あちこちをなでられて、耳もとで甘ったるく「好きだよ」とささやかれて、身動きがとれなくなる。
 卑怯だ。ずるい。逃げ道をふさぐなんて。
 慶はほんとうに固まっていた。体を震わせることさえもまったくできずにいた。色気も恥じらいもはにかみもなく、むしろ無様で道化じみていてばかみたいだった。
「体はいやがっていない」なんて安手のポルノ小説の台詞は嘘っぱちだ。
 反応するのは体じゃない、脳だ。拒絶している脳と同じところで、どうして快楽なんておぼえることができるだろう。
 生理現象だけでは気持ちよくなんてなりっこない。かえって苦痛なだけだ。だから、一瞬でも気持ちいいと思ったら、完全に負けだという気がした。それは心までおかされ、屈服させられ、受け入れさせられたのだということだと思った。
 だから、口からいつもと違う声がもれないように、懸命だった。
 自分が置かれている状況と、与えられている感触とをうまく整理することができず、頭の中はぐちゃぐちゃだった。混乱して、飽和状態だった。
 もう、なにがなんだかわからなかった。
 ベッドの上で、卑猥なことを、視界いっぱいに広がる卑猥な顔と、耳もとでささやく卑猥な口ぶりで言われて、やめてくれと言いたかった。
 ふだんは端整な容貌と声をしているのに、そんな崩れた様子を目の当たりにするのは耐えがたかった。
 誰かがそんなふうに豹変したところに接するのだってはじめてだったから、ショックはひとしおだった。
 全身を伝う、慣れない感触。それは唇であったり、舌であったり、手のひらであったり、指先であったり、シーツであったりしたらしいが、どれも全身の肌で味わったことがないため、判然としない。
 どんなに仲がよい人でも、慶は体に触れたり触れられたりすることを好まない。なのに、このときは、相手の動きをとめようと手首をつかんだり、手を握ったりしていた。あきらかに、精神状態がいつもとちがっていた。百戦錬磨の相手にかなうべくもなかったけど。
 慶の理性は必死に状況を確認しようとしていた。おびえたり泣いたり気絶したりできれば楽になれたかもしれないのに、憎たらしいほど頑丈にできているのか、神経はよく持ちこたえていた。ことあるごとに卒倒していたという昔の貴婦人を見習いたいくらいだった。
 鳥肌が立つほどの恐怖も、吐き気を催すほどの嫌悪感もない、中途半端さが原因なのだろう。それとも取り乱して、これ以上自我と自尊心を崩壊させてはいけないという意識が働いたのか。わからない。しかしこれでは、合意の上の行為だとみなされるに決まっている。
 いやだいやだと呪文のように繰り返して抗うのも、疲れてきた。実りのない行動は、むなしくなるばかりだ。ひたすらに慶の力を殺ぎ、奪い取る。
 無限と思える時間を葛藤についやすことにも疲労はつのる。どんなに拒んでもどうせかなわないのだったら、相手が満足するまですれば解放してくれるだろう、という諦めの気持ちが芽生えてくる。
 体をよじって逃げようとする態度もまた、扇情的な媚態に見える、と慶の中にいるもうひとりの慶が、至ってひややかにあざけった。それがほんとうだとしたら、一体全体どうすればいいのかという気分になった。



photo:mizutama

20051013, 20080126
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