ふるふる図書館


第七章 屈託しない約束




photo:mizutama

「ここに帰ってくると、物語を書きたいって欲求がわいてくる。書きたいこともどんどん浮かんでくるんだ。中学のときみたいに。東京暮らしじゃ、そんなこともなくなったのに」
「じゃあ」
 口をひらく尋を制して、ことばをつづけた。
「でもね、この町にいたら日比野ひびきは書けなくなるよ。ここで物語を考えるのは楽しい。それだけで幸せになれるくらい。でも、そんなのは、子どもじみたとりとめのない空想だ。物語なんかじゃない。小説なんかじゃない。だったら、あっちにいたほうがずっといい。情熱なんかわかなくても」
「楽しいと思うことを選べばいいじゃないか。お前には才能があるんだから、苦しんで続けることないよ」
 尋は無造作に言った。どうしてこういうことをさらりと声に出せるのか、慶はいつでも新鮮なおどろきに包まれる。自分自身のことすら、さりげなく語るなど慶にはできないでいるのに。
「親もね、心配してくれてるみたいで、帰ってくるようにしきりにすすめるんだ。でも、あんな小説書いてることを知られたくない。いやらしい本を持ってるのを見つかるよりも恥ずかしい。
 それにね。インターネットだってきっと要らなくなる。いつもはネット依存症になりかけてるのに、昨日今日とパソコンに触らなくても平気なんだよ。気にならないんだ。日比野はサイトを運営できなくなるね。せっかく日比野のサイト、見てくれる人がいるのに」
 そう。日比野ひびきにつながる何もかもを、慶は捨ててしまうだろう。縛りつける鎖から我が身を解き放つために選んだ桎梏なのだから。
「ふうん? そういうもの? おれはネットやらないからわからないけど」
「うちの両親もだよ。必要性を感じない人たちだから、理解してもらおうとするのも気がひける」
 マウスを握りしめ、巡回しているサイトのウインドウをひらいて変化があるか確認しては閉じ、またひらいては閉じ。その繰り返しで毎日数時間がすぎていく。頭にもこころにも、何も刻まれない、何も残らない時間が無為であることも、そんな生活が不健全であることもわかりきっているのに、からだはやめようとしてくれない。そんな毎日を、実は捨てたがっているのかもしれない。
「誰にも秘密にしておくのか。結婚もできないじゃないか、相手が理解者だったらいいけどさ。そうだ、おれと一緒に住むのはどう?」
「はあ?」
「名案だ。我ながら。日比野の正体がわかっても、妹はむしろ喜ぶ」
「ばか、作品と作者を混同するなよ。艱難辛苦を乗り越えて相手とめでたく同棲生活をエンジョイするのは、あくまでフィクションの世界なんだから」
 冗談にまぶすよう、細心の注意を払った。しかし尋は笑わなかった。慶が語を継ぐ声は小さくなった。
「ヒロはここでずっと農業やっていくんだろ、家族と。だから」
 ああ、これじゃ、どこか別のところでふたりで暮らしたいと言ってるみたいに聞こえるじゃないか! ちがう、そうじゃない。慶は自分に焦れた。
「そうだよ、ずっとここにいる。だからいつ帰ってきてもいいよ、ケイ。こっちに来たら、いつでも連絡してな」
「……うん」
 みるまに視界をかげらせて沈んでいく太陽から目をそらし、慶はうなずいた。
「そうだ、ヒロの携帯番号とアドレス教えて」
「携帯なんて持ってるわけないだろ。メールだってしないよ」
「ええっ。二十一世紀だよ今。まあ、それもヒロらしいけど」
「必要ないだろ。だってずっとここにいるんだし」
「うん。そうだね」
 お互い、手紙などを書き送る性質でもない。まめに連絡など取ることはしない。
 でも、会いたくなったら会える。いつでも迎えてくれる。そういう距離でいい。
 それにしても、皮肉なものだ。かなえたい夢があるから、東京に出た。かなえたい夢があるから、そう易々と離れるわけにはいかない。でも、東京にいると、夢をすぐに忘れてしまう。生活にすりへらされて、流されて、夢をかなえる情熱などうすれてしまう。それを悲しいだとかさびしいだとか感じる気持ちまでも。この、広大な監獄にいたからこそ、まじりけのない純粋な願いが育まれたのかもしれない。
 しかし、今回実家に帰り、父母に再会した。整頓と秩序が支配する家。清潔な寝具。よい香りのする衣類。栄養と気遣いに満ちた料理に触れた。それに、尋と過ごす時間が持てた。これをきっかけに、自分が原点に帰れた気がする。リセットされたような気がする。今のこの思いを抱いて東京に戻れば、きっとだいじょうぶだろう。
 久しぶりに楽に深く呼吸ができたような気分だった。慶はおぼれそうに息をし、もがきながら歩いていたのだ。今まで、そんなに毎日苦しかったなんて、どうしてまるで気づかないでいられたんだろう。
 ふたりは車に乗った。すでに真っ暗に近い車内で、尋はまっすぐに慶のほうを向いた。
「そもそもなんで、ああいうたぐいの小説を書き始めたんだ?」
「えっ。忘れちゃったよそんなの。どうしてだろ。たくさんの人に読んでもらうのにはいいかなって。こういうジャンルって、けっこう受けがいいんだね。ほんとにいっぱい、アクセスしてもらえるよ、うちのサイト。それが縁で、本を出版してもらえたりしてるし」
 きっかけを忘れたというのは、偽りだ。
 すべてを話すわけにはいかない。慶がそんな小説を書いていることを知っても、あっさりと受け止めてくれた尋だけど、でも、すべてはきっと受け入れてもらえないだろう。慶は、尋が知っている慶とだいぶ変わってしまった。でも、尋とは、昔と変わらない関係でいたかった。そのためには、平気で嘘だってつく。
 尋が凝視しているのを頬がちりちりする感覚で悟った。不意に鼓動が早鐘を打ち始め、慶は視線を伏せた。
 絶対にないはずだが、もし、万が一、この場で尋が友だち以上の、もちろん家族に対するものでもない行為をしてきたら。
 こんなことを考える自分は狂っている。そんな目で誰かを見る自分が悲しくなる。でも、慶の過去が、そういう仮定を条件反射で導き出してくる。尋の知らない慶の歴史が。
 そんな行動に出られたら、自分がどうなるのかわからない、この関係を変えたくないと切望しているはずなのに。いつも状況に流されてばかりいる。
 たぶんずっと、自分から誰かを愛することもせず、一生受身で終わるのだろうと、慶はひっそりと自嘲した。

20051011, 20070907
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