ふるふる図書館


第二章



 ある日のこと、王子さまの姿が見えなくなりました。
 お城のどこをさがしても、いないのでした。自由奔放な王子さまのこと、こっそりお城を抜け出したのでしょう。
 おきさきさまは、ふと、これはいいきっかけになるかもしれないと考えました。
 お城にいる限り、王さまの餌食にならない保証はどこにもありません。それに王子さまの居所は、鏡に問えばたちどころにわかるのです。
 さっそく、森の中にいるという情報をつかんだおきさきさまは、王子が不在なのをおおやけにせずにうまく言いつくろい、ひとりのかりうどを呼び寄せました。
 かりうどに追わせることにしたのです。蛇の道はへびです。
 かりうどは、言いつけにしたがって、黒い森の中へ入りました。
 うっそうとして昼なお暗く、なにが出てくるかわからない危険がいっぱいの地域です。いつ、けものに食い殺されるかわからないこんな場所に、あの愛らしい王子さまがひとりでいるのを想像しただけで、かりうどの心は痛みでいっぱいになりました。
 なにしろ深窓育ちの王子さまです。心細さにひとりで耐えているのではないかと考えると、胸がつぶれる思いでした。
 ほどなく、かりうどは王子さまを見つけました。王子さまは、大きなもみの木の根元に座って休んでいました。
「殿下、お探し申し上げました」
 声をかけると、落ち着き払ってかりうどを見返しました。おびえているようすはみじんもなく、幼いながらも堂々とした風格がありました。かりうどは御前にひざまずきました。
「わたしを連れ戻しに参ったのか」
「あなたの母上に、あなたのごようすを見てくるようにと命じられただけです」
「わたしは、城には帰らない。家出したのだ」
「家出!」
 かりうどは不敬なことに、おうむ返しに王子さまのことばをくりかえして目をぱちくりさせてしまいました。
 王子さまはおおまじめにうなずきました。
「そうなのだ。わたしは森の奥のほうへ入っていって、城へは二度と戻らない。ここで死んだことにしておいてくれないか」
 ちょうどそのとき、猪の子がしげみのかげから突進してきました。王子さまは、すばやく可憐な白い手を宙に舞わせ、その首根っこをひょいと無造作につかまえました。
「ほら、これを殺してハンカチに血をつけるのだ。それを、わたしの血だと母に見せればいい。体は狼に食いちぎられたと申せばいいのだ」
 王子さまの豪腕と荒業に仰天しながらも、かりうどは深くためいきをつきました。
「おそれながら殿下、鑑定すればすぐにうそがばれてしまいますよ。それに王妃陛下は、あなたを連れ戻すように命じたわけではありません。あなたの居場所も正確につかんでおられるごようすです」
 王子さまは、黙って下を向き、猪の子を放ちました。
 かりうどは、その整った横顔を見ながら、なぜ王子さまが家出などという突拍子もないことを考えたのか、わかる気がしました。
 王子さまを溺愛するおきさきさまのことは、城中のみならず、国民にひろく知れ渡っておりました。おそらく、幼い王子さまには、その可愛がりっぷりが耐え切れなくなったのでしょう。
 いくら実の親子でないからとはいえ、おのずと越えてはならない一線があります。
「なにを不埒なことを考えているのだ」
 かりうどが我に返ると、漆黒の瞳に、射抜くように見つめられていました。
 森の中でどんなに凶暴なけものに遭遇してもひるむことを知らない豪胆なはずのかりうどは、その視線に、背中に冷たい汗がしたたるのをおぼえました。
「わたしとそのようなことをしたいと思っているのか」
「滅相もございません」
 かりうどはあおざめました。王子さまはかりうどに近づき、愛くるしい口もとに笑みを刻みました。
「相手をしてやってもよいぞ」
 そのさまは、幼い少年とはとうてい思えません。あだっぽい妖艶な少女に見えました。かりうどは身ぶるいしました。のどの奥から押し出した声がかすれました。
「おたわむれを。わたしは、もう、行かなくてはなりません。さようなら、殿下、ごきげんよう。お元気で」
 逃げるようにかりうどはその場をまかり出ました。こんなところに幼子をひとりで置いてきぼりにするなどもってのほかなのですが、そこまで気を回している余裕が、かりうどにはなくなったのです。
 一秒でも長くいたらつかまってしまう、そんな強迫観念にとらわれ、ひたすらすたこら足を速めたのでした。

20050626
PREV
NEXT
INDEX

↑ PAGE TOP