ふるふる図書館


第十二章 臺カオル 4



 小日向克己と西宮悠希が楽しそうに微笑み交わしている。ちょっとからかうような甘いまなざしの小日向克己、構われてはにかんだ表情を浮かべる西宮悠希。今時のイケメンと可愛い女の子。お似合いのカップルだ。ただ、彼女はいつもの地味なすっぴんの方がいい。男受けを狙おうなどと考えもしていなさそうなところが好感が持てる。
 小日向克己は女の子に不自由していなくて流行に敏感で華やかな子を侍らせていそうなのに、飾り気のない子のほうがいいんだろうか。それとも、いつもの彼女の姿を知らないんだろうか。あるいは、自分といる時以外は男が寄ってこないように垢抜けないかっこうをさせているとか。そんな嫉妬をするタイプじゃないか。
 あ、デートでは彼女が努力をしておしゃれをしているってことか。だとすると、相当彼のことが好きなのか。
 みんなで一緒にレストランを出て、そんな考えを巡らせていたら、見るからに観光客といった感じの外国人の家族連れに声をかけられた。
 駅はどの方向ですかと質問してくる。それだけだと、ゆりかもめなのかりんかい線なのかわからない。駅もたくさんある。どこに行きたいのか確認して、便利なルートを教えた。お礼を述べて彼らが立ち去った後、先ほどまで席を共にしていたみんながまじまじと俺に視線を送っているのに気づいた。
「臺君、英語が堪能なんだね」
 小日向克己に指摘されて、遅まきながらようやく英語で会話していたことを自覚した。
「ネイティブかと思ったあ」
 コジマさんというひとがうきうきはしゃいだ声を出した。俺は前髪を元通りに下ろしてめがねをかけた。するとコジマさんは明らかに残念そうにした。わかりやすすぎる。
 理沙が誇らしげにぺたんこの胸をそらした。
「そりゃそーよ、だってカオルは」
「はい理沙ちゃん、ありがと」
 ヘアピンとゴムを返却して注意を逸らそうとするも、残念ながら、理沙のおしゃべりはとどまらなかった。
「ハーバード大学を出てるんだよ」
「ハーバード?!」
 すっとんきょうな声は誰のものだったのか、あまりにすっとんきょうすぎて判別できなかった。俺は理沙をやんわり遮った。
「ほらほら俺のことはいいから」
 カオルは何でもできるし何でも持っているのよね、という声が脳裏によみがえった。顔はいいし頭の回転は速いし学業も仕事も優秀、勤務先は一流企業で高収入。社交的でリーダーシップを取れるし誰かのアシストに回ることもできる。カオルはわたしがいなくても生きていけるでしょう。わたしもカオルがいなくてもたぶん生きていける。お互い自分の足で立って歩いていけるしそれで平気でしょ。でも、あの人はちがう。誰かがついていないとだめだと思う。  お互い自立した対等な人間として付き合うのが大人というものじゃないのか、という俺の疑問を封じるように、彼女は続けたのだ。
 それにね。カオルといると自分を見ているような感覚になるの。わたしたちって似ているよね。だからわたし、あの人を選ぶ。あの人はお金も学歴もないし見た目も今ひとつだけど、わたしがそういうの全部持ってるからいいの。ごめんねカオル。ありがとう。
 きっぱりと宣言して彩音は俺の幼なじみと交際し、数年後に結婚した。秀でているものを何一つ持たず、友達も少なく、高校を中退してフリーターになり、仕事は長続きせず転々とし、パチンコと競馬にお金をつぎこみ、挙句に彩音と理沙を残して死んでしまった幼なじみと。
 俺にしておけばよかったのに、などと言うつもりはまったくない。彩音が決めた道を否定するはずがない。だけど、俺の今の生活を彩音は自分に対するあてつけだと感じているかもしれない。顔を隠し、冴えない格好をし、人付き合いの幅を狭め、のらりくらりとふるまい、勤めを辞めて無職まがいの生活をして。彩音は俺を選ばないし、俺も彩音を選ばないことは確定しているのに。
「ハーバードかあ、すごいですね……」
「小日向さんだっていろんな言語がぺらぺらだって聞いてますけど」
 さりげなく矛先を逸らすと、小日向克己は優雅に手を振った。
「いや、僕はそれほどでも」
 そんなふうに謙遜してみせるが、俺にはわかる。小日向克己はとんでもなく負けず嫌いだ。容貌などもって生まれた資質もあるだろうが、他者から抜きん出ている部分のほとんどは地道な苦労をして手に入れたもの。天才型ではなく努力型だ。だから能力を無頓着に垂れ流すというもったいない真似は断じてしない。どんなささいなことでも自分に有利になるように計算する、実に巧みで効率よく無駄のない運用をしている。言い換えれば「せこい」ということだが。
 ああ、どうも思考が辛辣になっているな。過去を思い出してちょっと気分がささくれ立っているんだろうか。まるで八つ当たりみたいだ。頭を冷やさなくては。
「そんな学歴で、どうして派遣やってるの?」
 挑戦的なのはお互いさまらしい。立ち入ったことなど質問しない紳士なはずの小日向克己が、ずいぶんつっこんだことを聞いてくる。俺は肩をすくめた。
「何ごとも経験です」
「モラトリアムってわけ?」
 いらだってるいらだってる。表面では相変わらずの優しげでさわやかな態度だが、能力を生かしもせずにのほほんとしている人間を嫌悪したくてうずうずしているのだろう。俺には仮面の下の本心を察知できた。本人は悟られているとは気づいていないかもしれないが、それは甘い。人生の長さと踏んだ場数が違うのだ。俺には自分の本性を知られても痛くもかゆくもないとでも思っている可能性もあるが。
「いいえ。休暇中です人生の」
「臺君って、幾つなの」
 正直に答えないではぐらかそう。二十四歳の小日向克己は、俺のこと同世代か年下だと思いこんで接してきているんだ。それをぶち壊してどうする。恥かかせて困らせてどうする。
 俺は相手を正視したまま淡々と告げた。
「三十二です」
「二十三?」
「三十二です」
「いくらなんでもさばを読みすぎてない?」
「疑うなら免許証見ます? はい」
 氏名の欄に臺馨と書かれた身分証明書を目にして固まっている小日向克己に、俺はことさら慇懃に付け加えた。
「あ、今までどおりタメグチでかまわないし、『臺君』って呼んでいいですよ。小日向さん」
 あーあ。やってしまった。俺としたことが大人げない。
 まあ、俺はしがない一介の派遣だし、男だ。小日向克己が深刻なダメージを受けたり罪悪感を抱いたりは皆無だろう。
 のんきにそう考えたのだが。
 小日向克己は、アイロンでもかけたのかというきれいさできちりとぴしりと勢いよく九十度に腰を折った。俺に頭をぶつけなかったのが不思議だった。
「すみませんっ」
 いきなりすぎる最敬礼に、今度は俺が絶句する番だった。
「自分と同年代かと思っていました。すみません!」
 営業職だから頭を下げるのに慣れているのかもしれないが、それにしても。
「そんなのいいです。頭上げてください」
「でも」
「日本人っぽいですね。俺、アメリカ生活してたんだし、年齢が下に見られるのは慣れてるし。敬語だとか全然気にしてないですよ」
 言った後で若干いやみっぽかったかと思ったのだが、小日向克己はいまだにこちらにつむじを向けたまま微動だにしなかった。膠着状態だ。こんな大げさな態度に出るとは予想してなかった。彼女や友人たちに示しをつけるためか。それとも、俺への逆襲だろうか。だとしたら小日向克己のほうが一枚うわてだ。俺は後頭部をぽりぽり掻いた。
「わかりました小日向さん。では、薄給の派遣であるところの俺に今度食事をおごってください。それでチャラにします」
 俺の申し出が意外だったのか、少し顔を上げた。
「ただし、小日向さんのセンスを如何なく発揮したお店ですよ」
「了解しました。探しておきます」
「わざわざ探さなくていいですよ」
「いや、みんなが知ってるところじゃつまらないですから。見つけておきます」
 ようやく背筋を伸ばし、にっこりする。その真意はわからない。社交辞令か愛想笑いか、場がひとまず丸く収まった安堵感か。
 飯を食いに行くぐらいで、特に何もないだろう。俺たちの関係が劇的に変化するわけもない。俺はどうせあの会社からすぐにいなくなる身分だ。
 理沙とともに彼らに別れを告げた。ふたりになって理沙が言った。
「なんか変なおにいちゃんだったね」
「そう? ああいうおにいちゃんが女の子にもてるんだよ。かっこよくて優しいじゃない」
「えー。そりゃあ同じクラスの男の子に比べたらましだけどー」
 男の子は野蛮で乱暴で下品で汚くて落ち着きがなくて頭が悪いと理沙はよくこぼしている。それにしても、あんなにもてるイケメンですらも、理沙にかかっては形無しだ。世間の女の子たちと大幅に基準がずれていることを、憂えればいいのか称えればいいのか俺はいつも迷う。
 あ、俺も理沙のことは言えないのか。

20090923
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