ふるふる図書館


第十三章 小日向克己 5



 臺カオルと別れた後のお台場でどんなふうに過ごしたのか、よくおぼえていない。そつも如才もない振る舞いは、オートマチックに無意識にできる僕のことだから、あの日もそうだったのに違いないが。
 若干、西宮悠希は心配そうな、というより怪訝そうな表情をしていた。吉住やアユミも不審に感じたに違いない。臺カオルに対して僕が行なった謝罪には、彼らも驚いたはずだから。
 僕はあの日、動揺していたのだろうか? それが事実だとしたらどういう訳でだ。公共の場で、衆人環視の中、知人たちがいる前で頭を下げたことに対して?
 いや、そんなことじゃない。それしきの行動を取るなど僕にとっては屁でもないのだ。たしかに僕は人並みはずれて優秀で有能で、ミスをすることなどめったにない。だからといって、いやだからこそ、間違いを犯したときに非を認めない愚かな人間などではないのだ。
 ではなぜ、それ以降の僕は気もそぞろになってしまったのか。白石佳奈子に「社内の者にはさんづけをして敬語を使え」と僕は指導した。それを自分自身が守れてなかったためだろうか。だが僕は白石佳奈子と立場が違うのだ。年下だと誤解していたことを除けば、派遣社員で新入りの臺カオルにタメグチをきくことはそれほどアウトなことではない。
 もうひとつ。自分が、それほど親しくない臺カオルを君づけで呼び、あまつさえフレンドリーな口のきき方をしてしまっていたことも解せない点だった。僕のキャラから逸脱したこの言動の理由は何なのだろう。
 もろもろの答えは、一週間近くたった金曜の夜になっても出ていなかった。
 待ち合わせ場所に指定した駅の改札口。我ながらほれぼれする手際のよさで仕事を片づけ先に到着していた僕は、臺カオルを待っていた。
 当初は僕の方からランチを提案していたが、詫びの印のおごりとなったためディナーに格上げした。臺カオルは「ああそうですね、仕事の途中だったら俺の格好で小日向さんに恥をかかせてしまいますよね。会社の人に見つかる可能性も高いですし」と同意したのだった。平日に済ませるという意識しかないのか。休日に僕と会食しに出張ろうという気持ちはないのか。ゆっくり話したいからディナーでよかったという考えもないのか。それは臺カオルにしてみたら当然なのだとわかってはいる。だが、相手が、僕との食事を義務や義理だと思っているのだとしたら。場を収めるためにしかたなく適当に約束をしたのだとしたら……。
「お待たせしました、小日向さん」
 背後からの呼びかけに振り返る。
「わざわざ着替えてきてくれたんですね」
 昼間のださださでぼろぼろで薄汚れた古着から一転し、品のよいジャケットとパンツをさりげなく身につけている。体型に合ったものを着て、センスよく垢抜けて見える。仕事着はどこかのロッカーにでも預けてきたのか、荷物は革製の小さなワンショルダーバッグのみだ。そこまで手間をかけてくれたのか、と満悦しつつも、やっぱりこの約束を面倒だと思っていないだろうかという懸念が沸く。
「小日向さんがスーツだから、浮かないように。あ、これだと会社の人に見つかったらばれてしまいますね」
 汚れでうっすらくもっためがねを取り、無造作にジャケットの胸ポケットに入れた。それにとどまらず、小さな容器に入った整髪剤を手のひらにのばし、長すぎる前髪をかきあげて素顔をあらわにした。僕はひそかに、わずかにうろたえる。
「いいんですか」
「まあ。小日向さんには一度見られてしまいましたからね」
 理由があって顔を隠しているのではないのだろうか。落ち着かない気持ちを抑えつけ、何気ないふうを装った。さきほどから自分の感情の起伏が激しく、うっかり疲れてしまいそうになる。ジェットコースターのように目まぐるしい。僕は視線をはずし、臺カオルを促して歩き出した。
「ここから遠いんですか?」
「そうでもないですが、路地裏にあるので少しわかりづらいかもしれません。だから駅で待ち合わせにしたんです」
「小日向さんは、ご都合よかったんですか。せっかくの金曜の夜でしょう。西宮さんに恨まれたりしていませんか、俺」
 臺カオルは相変わらず淡々とした表情と口調を守っている。僕は苦笑した。
「そんなにしょっちゅうデートしませんよ。それに、僕は、臺さんとじっくり話をしてみたかったから。僕の誘いを受けてくれて本当にうれしいです」
「俺を口説いても、何も得しませんよ」
「口説かれ慣れているんですね、臺さんは」
「まあそういうことにしておいてください」
 そのしれっとした言い草を、以前の僕なら心の中で笑い飛ばすことができたはずだった。しかしそんな造作の顔で言われた日には不可能だ。
「小日向さんは口説き慣れていそうですよね。あ、可愛い彼女以外には、そんなことしないでしょうかね」
 並んで歩いていた臺カオルが僕にまっすぐまなざしを向けた。口角がわずかに上がっている。はじめて僕に向ける、臺カオルの笑顔だ。
 違う。と、突然否定したくなった。悠希は僕の彼女じゃない、と。
 幸い、目的地が見えてきて、この話題を断ち切ることに成功した。

「さすが、いいお店を知っていますね」
 僕が選んだのは落ち着いた小さな和食の店だ。「隠れ家」と堂々と銘打ち「どこがだよ」とつっこみたくなるようなところではなく、実にひっそりとした佇まいである。掘りごたつ式の半個室になっていて、他の客と顔を合わせることなく、他の客の声に会話をじゃまされることもなく、ゆっくりと食事を楽しめる。
「気に入っていただけました? よかった。ここは食事もおいしいし、お酒も充実してるんです。日本酒も焼酎もワインも銘柄が豊富で。臺さんは何がお好きですか? 飲まれますよね?」
「飲みます」
 即答だ。やけに食いつきがいい。僕が示したメニュー表を身を乗り出してのぞきこんでいる。どうやら呑ん兵衛らしい。飄々とした態度がみごとにくずれ、真剣に文字をたどっている相手の姿に、してやったり感をおぼえる。
「お好きなんですね。強いんですかお酒」
「弱くはないかな、そこそこですよ。小日向さんは強そうですよね。飲む機会も多いでしょうし」
「僕も普通かな。限界に挑戦したことないのでわかりませんが」
「わあ、大人」
 からかうようなくだけた口調。ほぐれてきた態度。酒の銘柄を見ているだけで気分が上がってきたのだろうか。
「保身が得意なだけですよ」
「いいじゃないですか、計画性なさすぎて周囲に怒られてばかりいますからね、俺は」
 こちらが話をふる前に、自分のことを話してきた。意外だ。僕はそこに飛びつくべきなのか。まだお通しも来てないうちから? 餌をちらつかされたら即座に奪いにいく、がっついた猫のようだ。自分の行動に迷ったことがなく、瞬時に判断できる僕なのに、臺カオルを前にするとなぜかほんのわずか、停滞してしまう。どういうことだ。
「そのあたりは、後からじっくり伺ってもいいですか?」
 僕はにこりと完膚なきまでの微笑を浮かべた。
「そうですねえ。うまい酒を飲んでいい気分になったら、舌がなめらかになりそうですねえ。困ったな」
 ちっとも困ってなさそうな顔で、臺カオルは笑うのだった。どれだけ飲む気だいったい。

 ふん。酒を飲んだら舌がなめらかになる、だって? 嘘をつくのもたいがいにしろ。
「ねーえー。僕の話ぃ、きいてますう? うてなさん?」
 ほら見てみろ、全然なめらかじゃないじゃないか!
「大丈夫ですか? 水持ってきてもらいましたから、飲んでください」
 なんでこんなことになってるんだっけ。あ、若いうちに限界は知っておいたほうがいいとかうまいこと言われて、日頃より多めにアルコールを摂取したんだった。乗せられるままくいくい飲んでしまうだなんて。僕としたことが。
 かてて加えて、ちょっとつっこんだ質問をしてものらくらかわされるばかり、結局、臺カオルの身の上なんて少しも聞き出せずじまいだった。いつもは絶対に張らない体をこんなに張ったのに! 腹が立つったらない。
 臺カオルが店員を呼んで、席に勘定書きを持って来させた。それを見ながら自分のバッグを開けている。上座にいざり寄り、その手を上から押さえつけた。動きを封じようと、ぎゅうっと握る。
「だ、め、れ、すー。僕が払うんれすう」
「いいですよそんな」
「だめれす、てばー。そんなことしたらぁ、また僕に、付き合ってぇ、もらいます、からね?」
「いいですよ」
「いいれすよじゃあ、ないからっ。これはあー、脅しなんれすっ。だってうてなさん、僕がきらい、でしょ?」
「は?」
 きょとんとして、それから臺カオルは吹き出した。頬杖をついて僕を眺める。うっすら目元が染まっているのはアルコールのせいなのか。しかし呂律にあやしいところはまったくない。相手が強いのか僕が弱いのか、判別がつかない。いや、臺カオルにああは言ったが、自分がどのくらいまで飲めるのかを、抜かりなくひそかに実験したことはあるのだ。だから自分がそんなに弱くはないことはわかっている。要するに、一升あけてもけろりとしている臺カオルが特殊であるにすぎないだけだ。こいつが化け物なだけだ。僕にこんな平凡すぎる弱点などあるものか。
「可愛いんですね小日向さん」
 真顔で抑揚なく述べられても、ちっともほめられている気がしない。いつもの僕の軽妙で洒脱で相手の顔を赤らめさせる台詞が、単にほんのちょっとばかり舌足らずになっただけで可愛いなどと言われるとは心外この上ない。
「でもそれ接待の席では危険ですよ」
 僕は弱くないっての。失態なんぞ、仕事で演じるかってんだ。
 臺カオルが、きれいに整った顔を僕にすっと近づける。
「じゃあ、小日向さんも、俺がきらいなんですか」
 僕が、きらいな人間を酒席に誘うわけがない。そんな暇人じゃない。自分に不誠実な人間じゃない。状況に流される人間じゃない。華麗に優雅にスマートに、僕はもとより誰ひとり傷つかない方法で、そういう事態を回避する。そういう才覚くらい持ちあわせているのだ。という気持ちをこめて、眉を寄せて首を振る。もうしゃべるのも面倒だ。
「それじゃあ、好きなんですか」
 ……なんでそうなる。
 スラックスのポケットの中で携帯が震えて着信を教えた。反射的に取り出してしまう。ディスプレイ画面を見ると、かけてきたのは西宮悠希だった。
「出ないんですか?」
 問われて通話ボタンを押す。押したつもりだった。
 そこから先、意識と記憶が途絶えた。

20150202
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