ふるふる図書館


第十一章 西宮悠希 4



 食という行為になんてそぐわないんだろう、リップクリームを塗った口というのは。
 今までは、ひとつの肉片をちまちまこまこま小さく切り分けてのろのろとろとろ食べる女の子を見るたびに、まずそうにしとらんでさっさと食わんかとつっこみを入れたくなっていたのだが、そんなことを言う資格を今日限りなくした。
 口を汚したら、色が落ちる。拭いたらみっともない。拭かないともっとみっともない。
 ああもう。豪快にほおばりたい。楽しく何の憂いもなく食べたい。目の前のパスタとの間に通じ合うものをなくしたように、距離が遠い。心の距離が。
 小日向克己と臺さんが談話していても、加わる余裕すらなく、ひたすら沈黙していた。
「さんづけでいいですよ」と言ってくれたものの、どうにも臺さんを臺さまと呼んでしまいそうになる。どこぞのアニメヒロインか。それも手伝い、私の口数が減ったのもごく自然の流れであった。
 便宜上彼氏の小日向克己が臺さんを独占していたところで、私にとってなんの不都合もない。同性に興味を示すとはとうてい思えない小日向克己が、臺さんと交流をはかっているのはよいことだ。何かしら前進したのだ。喜びこそすれ、嫉妬だなんだという感情はまったくもって小気味よいほど生まれてこない。
 ふと子供時代の記憶が脳裏をよぎった。そのころから今に至るまでそうだった。人が二人以上いるところに、私のしゃべる余地はいつだってない。教室で、学食で、ゼミ室で、私は何のためにいるのだろうといつも思う。ただの賑やかしだろうか。気を遣われたのだろうか。居場所がないのなら、私は誘われたくないのに。ひとりでいたいのに。半端な親切心など餌みたいに投げ与えられずとも、私は平然と生きていける。
 せいぜい人を冷静に観察するしか、やることがなかった。このくせは、そうした経緯でついたものだろうか。
 周囲に好かれ癒し系と呼ばれる女子が実は性格がきつくて冷たいことも、みんなに愛想よくふるまう男子が内心では上から目線であることも、人望篤い講師が本当は学生を差別していることも、私は知っている。誰ひとり気づかなくても私だけは見抜いている。彼らは私の前では油断して、本性をさらしてしまうのだろうか。それとも私の存在はまるで認識されていないのだろうか。
 いつもどおり私は小日向克己の正体もあっさり見破り、見てくれやら上っ面だけの優しさやらに惹かれるところがまるでなかった。いや、ただのひねくれものなのだろうか私は。
 逆に。暗いだとか冴えないだとかセンスが悪いだとかキモイだとか生理的に受け付けないだとか爪弾きされ嫌われている人が、他者を陥れたり傷つけたり争ったりすることをまるで望まない善人であることも、私はわかっている。たしかに話をしていると打てば響くような応答もなく煮え切らず優柔不断でいらいらするけれど。人を見下し陰口を叩くような輩よりよほどましだ。それとも、「おとなしく集団内にあって目立たない」という同族だからひいき目で見ているだけなのか。
 私の外見はそう悪くない。小顔だし色白だし美肌だし。体つきは細く、髪はさらさらだ。胸だってけっしてぺったんこではない。いちおう、Cカップに届いている。ただ、いつも、地味で野暮ったい眼鏡っ子の服装をしているだけだ。可愛い女の子の扱いをされるより、男みたいでださくて垢抜けないと思われたほうがよほど気が楽なのだ。男どもから言い寄られたりちやほやされたりするのはうっとうしい。モテの神さまに見捨てられ放置されていたい。キラキラ女の子ワールドから追放されていたい。こんななりをしていれば、相手にしようとしてくるのはだいたいヘタレや親父やオタクが多い。彼らは強引さに欠けるから、あしらいようはいくらでもある。その気になれば手玉にだってやすやすと取れるだろう。実行しないのは、目立たず万事控えめに生活したいと願えばこそである。
 臺さんがヘタレや親父やオタクのカテゴリに入る人じゃなくてよかったと私は胸を撫で下ろしていた。あれだけの美貌なら、私を女と見てアプローチをかけてこないだろう。
 私は黙々とパスタをくるくるフォークに巻きつけている。誰も私を見ない。なぜ私、ここにいるんだろう。食べるのもしゃべるのも億劫になるような化粧をして、髪をきれいにして、動きづらいひらひらした服着て、肌がかゆくなるストッキング履いて、歩きづらい靴を履いて、甘ったるい香水をつけて。なぜ。
 私は、空気か。
「もしかして、不器用?」
 小日向克己が言う。誰に?
「私が?」
 問いかけながら小日向克己に視線をやれば、おかしそうに笑みを浮かべていた。
「さっきからずっと同じパスタをくるくるしてる」
 ちっ、見られていたか。これは逆襲だろうか。お台場くんだりまで付き合う羽目になってしまったことに対する。
「それとも、もうおなかいっぱいなのかな」
 私にかける声はあくまで優しくて、やわらかい。まるでほんものの恋人に対するような甘い口調を私相手に適用するとはどういう了見だろうか。
 そうか。話の輪に入れていない私への気遣いだ。この男にとっては、条件反射、いや脊髄反射みたいなものなのだろう。人にまんべんなく話題をふって。場を和やかにして。そうやって世を渡ってきているのだろう。それはわかる。
 だけど、たとえ上っ面だけのものでも。不覚にも私はうれしいと思ってしまったのだった。
「ううん、ただ不器用なだけ」
 私は微笑を返した。そこではたと気づく。
 日ごろ私は、いわゆるイケメンと近づくことはおろか、言葉を交わすことすらない。だから、この恋人ごっこを実は楽しんでいたのだ。気分がよかったのだ。このご時世にありながら文句なく女にもてて、仕事ができて、一流企業に勤めていて、高給取りで、見目がよくて、センスがよくて。中身はともかく何拍子もそろった夢のような王子様。まさに高嶺の花。おまけに、ぱっとしなくて冴えない女の子の私も、可愛く装った女の子の私も知っている。ここ重要。
 そうか。そういうことなんだ。感心した。
 こうなったら。私がさらなるステージを目指すために、小日向克己をしばらく利用させてもらおう。踏み台になってもらう小日向克己には申し訳ないけど。

20090505
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