ふるふる図書館


第八章 西宮悠希 3



 ああ、鼻の頭がかゆい。猛烈にかゆい。
 しかし、掻けない。塗ったファンデーションが落ちるんじゃないかと思うと、うかつに顔さえさわれやしない。
 ストッキングだって、ほんとうにつらいのだ。こんな華奢なもの、いつ破けるかわかったものじゃない。いつでも戦々恐々だ。ただでさえ、中高生時代はあれほどまでの厚地でできたハイソックスの親指にさえしょっちゅう穴をあけていた私なのだから。
 世の中の女子を私は、心底から尊敬した。自由と闊達さを奪うようにできているのだ女子の装いは。しょっちゅう、髪型やメイクの崩れを心配していなくてはならない。おちおち気を抜くこともできない。動作を制限されることが優雅さに結びついているなら、私はつくづく女子をやるには向いていないらしい。小洒落たオフィスで働くなんて絶対できっこないだろう。衣装によって挙措を拘束されるとしたら貴族だってしかり。ふん、私は単なる一庶民でいいさ。
「だいじょうぶ、悠希さん。疲れちゃった?」
 口数の減った私を気遣ってか、吉住さんが言う。
「そんなことないですよ」
 にっこり否定。まだ午前中で、まだゆりかもめの中。今日のイベントは始まってすらいないのだ。疲労するわけないだろうに。
「そんなに体力なさそうに見えますか?」
「だって悠希さん細いからさ。貧血起こして朝礼で倒れる女の子、て感じ」
 吹き出すな、こらえろ私。
 本気か冗談か、社交辞令か世辞なのか、判断に苦しむ私の向かいの席で、小島亜由美が口を出した。
「こう見えても、ユウって体育会系なんですよお。高校時代は女の子のファンも多かったんですぅ」
「え。ちょっと」
 私はその場に立ち上がらんばかりの勢いで、小島亜由美を問いただした。
「何その話。知らないよ?」
 詰め寄られた彼女が目を白黒させる。どうやら私は興奮しすぎたらしい。すばやく居ずまいを正した。
「ユウ、知りたかったの?」
「それは、まあ」
 当時聞かされたとしても戸惑うばかりだったにちがいないけれど。
「悠希はボーイッシュな格好も似合いそうだよね」
 小日向克己が微笑んだ。「女気も色気もないものな」とその笑顔にありありと書いてあるのに、解読できるのはどうやら私だけのようだ。どういうことだ。見えないのが通常の人間なのか。私には特殊能力でもあるのだろうか。
「てゆーかあ、男の子そのものでしたよお。ほんとにワイルドで」
 お、小島亜由美は私の価値と品位を蹴落とす作戦に出るようだ。ふうん。別にいいけど。どう言われようとも、小日向克己と私の関係が破綻することなどありえないのだ。もともと破綻しているのだから。
「牛乳を飲むときは必ず腰に手を当てて足は肩幅にひらくし」
 そのポーズって、ふつうじゃないのか。
「うわー、悠希さん可愛いなあ!」
 吉住さんがなぜか声をはずませて絶賛してくる。あんたは反応しないでよろしい。
「格闘技見るのが大好きだし」
「へえー」
 目をますますきらきらと輝かせる吉住さん。もしや彼の萌えスイッチを的確に押してしまったのではないか。秘孔を突いた。お前はもう萌えている。その基準に共感することは、残念ながらさっぱりできないが。どこに彼を夢中にさせるロマンがあるというのだろうか。
 吉住さんのような人々にたとえもてもてになったとしても、まったく女子から嫉妬されない気がする。それはそれで気が楽ではあるが……吉住さんたちとしてはどうなんだろうそこのところ。などと余計な心配をしてしているうちに目的地に到着した。

 お台場のプレイスポットというものがよくわからない。
 前もって少し調べておいたが、人気のあるヴィーナスフォートなどは結局のところショッピングが最も多いのではないか。経済活動とはそれほどまでに人の娯楽となりうるのか。物を得るのは確かによろこびではある。本を読んで知識が増えるのは楽しいし。
「だけどまあ、『おばあちゃんの原宿』だってとげぬき地蔵へ詣でるほかはお店巡りだから、同じようなものか」
 真面目に言ったのに、小島亜由美は「どうしてそういう発想になるの」と呆れた。吉住さんは「やっぱりおもしろいなあ悠希さんは」と受けてくれた。小日向克己からは、これといったリアクションがない。どんな返しをしていいのか思いつけなかったんだろうか。女の扱いに慣れてても、難易度が高かったのかもしれない。いかにも女っぽい女としかつきあってないからだ。ふん、ざまをみろ。私は少し溜飲を下げた。
 おっと、私は小日向克己とチームメイトだったんだ、足をひっぱるような真似は控えなくては。
「それで、どこに行きましょうか」
 さりげなく仕切り直しをする。
 やっぱりデートだったらヴィーナスフォートが定番なのだろうか。私はパレットタウンだったら車のテーマパークMEGA WEBがいい。特に、五十年代から七十年代のクラシックな車の展示を見たい。だけど小島亜由美が興味を示すとも思えない。東京レジャーランドという道もあるが、私は別にゲームに関心はない。名物の観覧車に乗ったってまったりしすぎて退屈だ。私はジェットコースターのようにくっきりきっぱりした乗り物が好きなのだ。
 そんな次第で向かった場所は、デラックス東京ビーチだった。海に行けるデッキのある、ショッピングモール。アジアや昭和三十年代の日本の雰囲気も味わえる点で、私の好みにも見事に合致していた。
 提案は小日向克己からだった。各人の嗜好データを収集し、総合して的確な判断を瞬く間に下す。その手並みはあざやかだった。おまけに、押しが強いとは到底感じられないものやわらかな口調には不思議と説得力があって、我に返ると一も二もなく従っている自分がいたりするのだった。いや、一応四歳も年下の「恋人」なんだから、素直に従わないといけないところなんだけどさ!
 ああ、なんだろうこの釈然としない気持ち。
 私は頭の片隅をもやもやとした考えに浸されながら、三人と店をひやかして回った。
 人とものが溢れていたから飽和状態になりつつあった。視覚も聴覚も。
 それなのに、その場内アナウンスはやすやすと耳に入り込んで、すんなりと意識にひっかかったのだった。
「……からお越しの、ウテナカオルさま。お連れさまがお待ちでございます……」
 ウテナ、カオル。
 宝塚歌劇団員みたいにきれいな名前は私になじみのあるものだった。
「どうかしたの」
 つい立ち止まってしまった私に、小日向克己が問いかける。
「今、呼び出しされていたのって」
「うん?」
「あ、いや、知り合いにそういう名前の人がいて」
 自分のバイト先の客であるなんて言ってはいけない。うかつにも、個人情報を流出させるところだった。小日向克己が首をかしげた。
「それは偶然だ」
「偶然じゃないよ、ちょっと変わってる名字だからそうそう同姓同名の人はいないと思う」
「同姓同名の人はめったにいない?」
「そうだよ」
「だから偶然なんだ。僕もウテナカオルという名前の人物を知ってる」

20060730
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