ふるふる図書館


第六章 臺カオル 2



 俺はいつもの百貨店に行った。
 ひいきにしている茶屋が、地下一階に入っているのである。高級な茶を取り扱う、老舗の専門店だ。どこにでもある店ではない。
 駅に降りてコンコースを抜けると、進物売場の一角に入る。その中に位置している小さい売場をめざした。
 おかず売場をつっきる。土曜の午後の百貨店は、ずいぶんごった返していた。
 にもかかわらず、狭い通路におばちゃんたちが数人陣取り、なにやら世間話に花を咲かせている。
 両手に商品を持った販売員が、声を張り上げていた。
「失礼いたします。後ろを通させていただきます」
 どく気配なし。
 ひとり通過できるかできないかの隙間しかないところに、販売員は倉庫に品物を取りに行った帰りなのだろう、たいそうな大荷物を抱えている。
 ぶつからずに通り抜けるのは無理だ。
 売場に客を待たせているらしく、販売員はかなり急いでいた。走ってきたようで息を切らし、顔も上気している。
「すみません、失礼いたします」
 どなっても、おばちゃんたち、気づくそぶりすら見せない。さすがの貫禄だ。
 いっぽう、販売員のほうは、まだ十代とおぼしき様子だ。線も細くおとなしそうで、とうてい太刀打ちできそうにもない。
 俺は見るに見かねて、助太刀してみた。
「すみません。店員さん、困ってますよ」
「あらあいやだ」
 何がいやなのか謎だが、とにかくおばちゃんは勢いよくよけた。逆方向に。
 大きな段ボール箱を重そうに抱えている販売員が、とっさに避けられるはずはない。
 それでも、大事な商品を落としたりもせず、しっかりと踏みとどまった。
「大変失礼いたしました。おけがはありませんか?」
 怒った表情さえ浮かべず、おばちゃんにたずねるその配慮はあっぱれだ。しかし、それすらおばちゃんたちは受け止めることもないようで、無視してさっさと場所を離れてしまう。
 さすがに俺は、他人事ながらむなしく悲しい気持ちになった。
「だいじょうぶですか?」
 販売員に声をかけてみる。
「はい、ありがとうございました」
「売場まで遠いでしょう」
 俺はつい、無意識のうちに手を貸そうとしてしまった。
「いえ、結構ですから」
 相手はあわてたように謝絶する。客に手伝われるなど、百貨店の販売員にとっては言語道断なのだろう。親切のつもりですることが、仇になってはいけない。
「今お客さまをお待たせしていますので、失礼いたします」
 急いで立ち去ってしまった。
 売場の在庫では間に合わないほど、緊急で大口の注文が入ったようだ。
 さて、どうしようかと俺は首をかしげてしまった。
 俺が目当てにしてきた茶屋は、まさに、つい今しがた会話した販売員の売場だったからだ。
 店員が二人程度しか常駐していない店舗だ。このまま足を運んでも、待たされるにちがいない。
 いや、待つことは別にかまわない。だが、人を待たせているというプレッシャーを感じさせて、店員に負担をかけるようなことはしたくない。
 ゆっくり歩きながらそちらのほうをうかがうと、先ほどの店員が、せっせと商品にのし紙をつけては包装していた。あの量を考えると、かたづくのはだいぶ先のことだろう。
 家には、もう茶のストックがない。できれば今日買って帰りたい。もう少ししてから出直そうと決めた。
 あちこち回って、ひまをつぶすことにした。家に待たせている可愛い客人のために、美味しそうな菓子を探すことにしよう。

 ころあいを見計らい、足を向けた。
 先ほどの件は完了したようで、売場全体が、閉店前の少々閑散とした雰囲気に包まれている。
「先ほどは、どうもありがとうございました」
 俺の姿を見ると、販売員はにっこり笑ってお辞儀をした。いつも接客するときの笑顔は、上っ面だけのものではない印象だが、今日はさらに、仕事抜きの素の表情に見える。
「こちらがひやひやしちゃいましたけど、さすがですね」
「あ、いえいえ」
「若いのに落ち着いているんですね」
「えっ。そんなことないです!」
 相手は少し赤くなり、両手をぱたぱたと顔の前で勢いよく振って否定した。そんなしぐさをすると、年相応の女の子だ。だが、意外に、見た目よりは年齢が上なのかも知れない。単なる客としてここに来るだけの俺には見当がつかない。
 彼女はアルバイトらしく、いつもいるとは限らない。それでも、
「今日もいつものお品物でよろしいでしょうか? ご自宅用でございますね?」
 俺のことをちゃんとおぼえていてくれる。はきはききびきびというより、ものやわらかな言葉づかいだ。
 なんていうんだろう、おじさんにもてるタイプなのではないだろうか。
 化粧っ気などまるでないし、地味だし(制服姿しか見たことはないが)、髪も黒いまま、スタイリングもしないままだし、極めつけにめがねだ。今どきの若者のおしゃれめがねじゃなくて、ごくごくふつうの。
 素直で、おっとりしている。いわゆる癒し系とでもいうのか。お客のいわれないいちゃもんにも冷静に対処するだけの謙虚さも肝っ玉もある。
 こういう女の子のよさに、気づかない若い男は多いんだろうな。
 見た目だけにとらわれがちだからだ。
 彼女は、素材はまずまずだ。いや、素顔でその髪型でこうなのだから、そんじょそこらのごてごてメイクをしてひらひらした服を着た同年代の女の子に比べたら、かなりハイレベルだと思われる。
 しかし、女の子を見るとき、男は容姿そのものよりも、どういうファッションをしているのかを参考にするのだ。それで、自分の好みかどうかを見極める。
 どんなに美人でも、流行と無縁な格好をしていれば、おしゃれ若人どもは見向きもしないことが多いのだ。
 だから、この茶屋で働く彼女も、受けるとしたらオヤジか、オタクか……キラキラした今どきの若い女の子に圧倒されがちなヘタレ駄目男か、ってところだろう。
 ということは、俺は、オヤジかオタクか、ヘタレ駄目男ってことか?
 ふむ。なるほど。新しい発見だ。
 百貨店がいくら庶民にとって敷居が低くなったとはいえ。ここが大きな駅に隣接しているから客層がピンからキリまでとはいえ。
 俺のような服装をした者は、場違いなのかもしれない。
「大変お待たせいたしました。五千円のお預かりでしたので、千五百二十五円のお返しでございます」
 トレイにレシートとつり銭を入れて目の前に置く。
 レシートには扱い者のフルネームが示されている。
 にしみやゆうき、と。

「カオル、遅かったね」
 俺が自宅に帰るなり、客が不服を述べた。
「ごめんごめん、店が混んでたんだよ。ほら、おみやげ買ってきたから、今お茶を入れるね」
「じゃあ、フォートナム&メイソンのワイルドストロベリーがいいな」
「せっかくの焼きたてタルトなのに。ワイルドストロベリーじゃ、香りがわからなくなっちゃうよ?」
 俺は日本茶党だが、彼女はめったに飲まない。だから、わが家に常備してある紅茶はほとんど彼女、深町理沙(ふかまちりさ)が飲んでいる。
 ストックの品質が落ちない程度に、理沙はひんぱんにここにやってくる。なんといっても、俺の彼女だからだ。お茶とおやつを友に気ままにおしゃべりをして、帰って行くのが常だ。
「カオルと理沙、婚約してるでしょ? だったら、指輪を交換しないといけないじゃない?」
 向かい合ってお茶を飲んでいると、理沙がそんなことを言った。
 理沙に結婚を申し込まれたのは先日だ。断ることもなく、俺は承諾した。
「だからね、今日持ってきたの。カオルの指輪。もちろん理沙とおそろいだよ!」
 いよいよ本格的に話を持ってくるなあ。展開が早いこと。理沙はバッグをさぐってなにやら取り出し、俺のとなりにきて、ちょこなんと座った。
 部屋のライトを浴びて、きらりと輝く、ビーズの指輪。小さい透明なガラス玉がつらなっている。
「男のひとって、やっぱりシンプルなほうがいいでしょ? 昨日作ったんだよ」
「ありがと、理沙ちゃん。大切にするよ」
 俺は、理沙の頭をなでた。
 左の薬指にはめるとぴったりだった。
「わあ、よかった。サイズ、ママに聞いたとおりだ」
 理沙が無邪気によろこぶ。少々聞き捨てならない台詞だ。
「ママは、俺の指輪のサイズを……」
 たずねかけた絶妙のタイミングで、インターフォンが鳴った。
「あ、ママだ」
 理沙が敏捷に立って、玄関へと歩いていく。まさに勝手知ったるなんとやらだなあと思っていると、理沙がママと一緒に戻ってきた。
「やあ、お疲れさま。仕事は終わったのか、早かったな」
「いつも託児所がわりにして悪いわね、カオル」
 理沙の母、彩音(あやね)は艶然と微笑んだ。
 つややかな唇、隙のない、それでいて甘さをほどほどに残したメイク、よく手入れされた長い髪、品よくきれいにととのえられた爪、ほんのりただようトワレ、高級でシックなパンツスーツ。誰がどう見ても「いい女」だ。一児の母にはまるで見えない。
「ちゃんとお行儀よくしてた? 理沙」
 理沙の顔をのぞきこむためにしゃがんだ。
「うん、カオルにきらわれたくないもん」
「こら。カオル、じゃなくて、カオルお兄ちゃんでしょ?」
「いいんだもん! 理沙とカオルはフィアンセだもん」
「あら」
 彩音はベージュのシャドウでいろどられた目をみひらいた。初耳だったらしい。
「見て、ママ。エンゲージリング」
 理沙は俺の手をひっぱり、自分と俺の指輪を誇らかに彩音に見せつける。
 げに怖ろしきは、事情を知らない五歳児。
 彩音は複雑な表情を俺に向け、俺もおそらく複雑な表情をしていたと思う。
 だが俺だっていい年した大人なんだから、五歳児の言うことを真に受けているわけない。幼女趣味があるわけでもない。断じてないったらない。
 だが今、理沙がいる前でそう釈明できるはずもなく。俺と彩音の微妙な空気に気づきもしないで、理沙ひとりが、平和に残りのお茶を飲んでいるのだった。

20060323
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