ふるふる図書館


第四章 小日向克己 2



 昼休みになった。
 社員食堂はあるが、毎日利用するわけではない。ほかの人と会話するのがわずらわしいのだ。僕ときたら、むやみやたらに顔が広いし。
 何の足しにもならないくだらない話に終始にこやかにさわやかにあいづち打つよりは、ひとりでのんびり食事をしたほうがずっと精神衛生上望ましいに決まっている。
 仕事や女や車の自慢やら、ローンや養育費やお受験の愚痴やら、僕が知るかってんだ。
 自然の恵み、誰かが手間ひまかけたありがたいごはんがまずくなるような話題は、ごはんに対して無礼千万もいいところだ。
 女の子のおしゃべりもわずらわしいから、同じ部署の白石佳奈子の誘いにつかまる前に、さっさと出てきた。
 今日の弁当は、僕のお気に入りのメニューだった。アスパラガスとフライドポテトのベーコン巻きと、温野菜サラダ。一番の自信作は、五色の豆の入ったおこわ。
 ぜひともじっくり噛みしめ、吟味し、満喫したいところだ。
 僕は料理がかなり得意だ。これなら、
「今どき男は料理くらいできなくちゃ。その点小日向さんは完璧よね」
「小日向さんは料理が玄人はだしなくらい上手だから、かえって嫁が来ないのね」
「結婚せずとも何ひとつ困らず優雅に生活できるんだな」
 上記のイメージを世間さまに持っていただけるだろうと僕は確信してやまない。
 僕の将来設計の中に、結婚というプランはまるきり組み入れられていないのだ。今から地固めをしておけば、独身のまま歳を重ねても、あわれみと同情と蔑視のこもった目で見られることはないだろう。
 同様に、仕事の能力、すぐれた容姿、余裕ある財力、かちえた人望もまた、決してそこなわれることがあってはならない。日々精進が必要だ。若さに甘えてのんべんだらりとすごしているいとまなど、これっぽっちもないのだ。
 春のうららかな日ざしを浴びて、会社の近くにあるいつもの公園に足を踏み入れた。
 ベンチに視線を向け、僕は歩みをとめてしまった。
 すべて先客がいたのだ。僕ひとり座れる空きがなくはないが、どうせなら誰にも気兼ねなく、ベンチをひとつまるまる堂々と独占したい。
 しかたない、食堂で食べようかと会社に戻りかけ、ひとりの人物に気づいた。
 遠目でも、すぐに誰だか判別できる。
 もっさりした服装と、もっさりした髪型。全身もっさりのかたまりだ。もっさりがもっさりした服を着てもっさりと弁当を食べている。
 うちの課でも、女の子たちの話題をさらってばかりだ。
「男で派遣だなんて、信じらんなーい」
 そう言う白石佳奈子もまた派遣の身分なのだが。女は非難するにあたらないという、実に都合のよい理論を滔々と展開してみせた。
「だって、結婚したら、だんなさんの稼ぎで食べていくわけでしょ? 男が派遣だったら、結婚しても奥さんの面倒見られないじゃないですか。その前に、結婚だってできないんじゃないですか?」
 彼女はいくつかの事例や可能性を見落としているが、「自分が結婚できない」という項目もあざやかにきれいさっぱり忘れている。さすがちゃっかりしたものである。もっとも、こういう人物は効率的にさっさと結婚するのかもしれないが。
「どうせ就職に失敗して、仕事にあぶれてるんですよ。だから派遣で、それも肉体労働なんてやってるんです。負け組? っていうんですか?
 そういえば、あの人なんていう名前でしたっけ? 名札見たけど、読めなくって」
「うてな、だよ」
「うてな?」
「あの漢字は、台所の『台』という字の旧字。訓読みで『うてな』と読むんだ」
「へえ、よく知ってますね、さっすが小日向さん」
 そんなはしゃいだ歓声とお目々きらきら作戦にのせられるほど、僕は甘くない。
 だいたい、白石佳奈子は国文科卒だと聞いているが。取り入るのが目的で人を誉めそやす前に、おのれの無知を恥じよ。いや、勉学に励むと励まざるとにかかわらず、ひとしく学生に学位を与える学校側をも憂うべきか。
 嘆くところとどまらない僕の、現在すぐそばにいるのが、うてなかおる、だなんて華やかな芸名めいた名を持つご本人だ。名は体をあらわすなんてよくよく嘘だな。
 同じ部署内に、一緒に弁当を食べるような仲のいい人間がいないのだろうか。
 と考えていたら、臺カオルがふっと顔を上げた。
 目が合ってしまった。
 そらすわけにもいかず、コンマ数秒で愛想笑いを浮かべる僕。二十四年間の人生がつちかった、かなしき脊髄反射だ。
「あ。座ります?」
 相手は、僕の意図をただちに察したようである。腰を上げかけた。
「いや、でも」
 僕は臺カオルの弁当箱を見た。まだ半分も食べ終わっていない。
「いえ、いいです俺は。ベンチじゃなくっても。そこらへんに適当に座りますから。こんな格好だから汚れても平気ですし」
 案外すばやい動作で、弁当をまとめに入る彼。
 あらためて間近で接すると、声も顔も若くて学生じみている。僕より年下にちがいない。
「いや、そんなの悪いから」
 しまった。と外づらのよさを悔やんだが、あれよあれよという間に臺カオルと並んで同じベンチに腰をおろして弁当を広げるという、ちっともほのぼのさせられない状況ができあがってしまった。
 つくづく何をやっているんだ、僕は。誰にも気を遣うことなく、ランチタイムを楽しみたかったんじゃなかったのか。
 しかも相手は同じ会社で仕事をしている人間だ。今のところほとんど接点がないにせよ、あからさまにのびのびした態度を取るにははばかられる。
 ためいきをひたぶるに押し隠して、僕はランチボックスのふたをあけた。何食わぬ顔は十八番のひとつだ。
「小日向さんは、いつも外で食べるんですか?」
 控えめな横からの呼びかけに、僕は箸でつまんだブロッコリーをあわや落っことすところだった。
「僕を知ってるのか?」
 思わず知らずタメグチになってしまったが、彼はゆったりした語調をくずすことも動じることもなくうなずいた。
「もちろんですよ。あ、小日向さんは、俺のことご存じですよね?」
「すぐにおぼえましたよ珍しい名前だから」
「うてな、がですか」
「それもだけど、『カオル』ってかたかなのところが。男性ではあまりいないんじゃないかな」
 彼は軽い調子で飄々と応じた。
「面倒だから、かたかなで書いているだけです」
「え? 名札も書類もみんなかたかなだったような気がするけど?」
「ええ、そうなんですけどね。案外通用するものですよ。子どものころからずっとかたかなでしたけど、特に何も言われませんでしたし」
 剛毅というか、大胆というか。そんなに難しい漢字なのか、と問うと、少なくとも小学生にはたいへんでしょうねと答えが返った。
「井上馨(かおる)っていう人が幕末にいたでしょう」
「あれと同じ字か。たしかに」
「面倒でしょう。名字も名前も一文字のくせに画数ばかり多くて、くどいにもほどがあるってものです」
 それで名前をかたかなにしているわけか。
「でも名字のほうは旧字体のままでしょう?」
 僕が指摘すると、彼は少し首をかしげたらしい気配がした。並んで座っているので、なんとなく顔は見ずに、僕は前を向いて話していた。
「そうですねえ。でも、なんだか別ものみたいで好きになれないんですよ。名前はかたかなで書かせてもらってるから、せめて名字だけでも正しく表記しておきたくて。どっちでもいいじゃないかって思われそうですけどね」
 そんなことはないと僕は言った。
「僕の名前は克己というんだけど、己に克つっていう字で」
「克己複礼、のコッキですね」
 さらっと論語を出された。何そんな教養あふれることさりげなくなにげなく挙げちゃってるんだこいつは。虚をつかれて僕は隣をかえりみた。
 相手はてっきり、前か弁当を見ていると思っていたのに、あにはからんや僕のほうをちゃんと向いていた。
 よれよれのシャツに、くたくたのスニーカー、ぼろぼろのジーンズ。こう言っちゃ悪いが。
 すこぶる貧乏くさい。
 のびた髪とめがねで、よく顔がわからない。少し無精ひげが生えているが、肌がなめらかなせいか、不潔感はなかった。そこだけが救いだ。
「そう。そのオノレの字をよくまちがわれて。やっぱりいい気持ちしないよ。それこそささいなことだけど」
 それにしたって、なんだって僕は相手に話を合わせてやってるのか。営業を生業とする人間の性なのか?
 親切にしたって、びた一文の得などないじゃないか、こんなもっさり。こんなださださ。
「ああ、まちがわれそうですよね。巳年のミとか已然形のイとかに」
 彼はうなずいた。
「じゃ、俺はこれで失礼します」
 気づくと、相手はすっかり昼食を食べ終え、そのうえ弁当箱まで片づけていた。僕はといえば、まだブロッコリーから進んでいない。
 なんだろうこの敗北感は。あまつさえ、さきほどから何かがつかえていて、秒速で増殖している。ものすごい違和感が。
 僕はいらだっていた。もちろん何食わぬ顔を保ったまま、おくびにも出さないが。これしきのことをいちいち表に出していては、この小日向克己さまの名折れだ。
 はたと、重大なことに思い至った。
 こいつは、これからいつもこの公園でおひるを取るつもりなんだろうか。なりゆきとはいえ、今日話をしながらランチをともにしてしまった。この次は、同じ敷地内にいるのに別々にベンチに座るのは変ではないだろうか。かといって、またふたりで並んでおしゃべりしながら弁当をつつくのは、断じてごめんこうむるぞ僕は!
 相手は言った。
「今日、たまたまこの公園に来たんです。いつもは同じ部署の人たちと食堂で食べるんですけども、新しくできた定食屋に行ってみようってことになって。俺は弁当持参だったから、一緒に行かなかったんですよ。それで、天気もいいから外で食べようかなって」
 少なからず虚をつかれた。僕の考えを正確に読んだかのような説明だ。
「では、お先に」
 彼が行ってしまってからも、僕は、自分の胸中のすっきりしないもやもやの正体がつかめず、せっかくの特製五色豆おこわを堪能することができなかった。

 午後の仕事がはじまり、営業一課のデスクで書類を作っていると、女子たちのこそこそとしたささやき声が沸いた。
 顔を上げれば、臺カオルの姿があった。雑用で足を運んだらしい。
 僕のほうを見ようともしない。僕がこんなに視線を送っているのに、完全に知らん顔である。
 わきを通る際にようやく視線がかち合い、彼はほんのかすかに目礼だけしてさっさと去ってしまった。やはり、ほとんど僕を無視したも同然だ。
 たちまち、おもしろくない気分に突き落とされた。
 なんだよ、ついさっきまであんなに話していたくせに。
 いやいや待て待て、落ち着け僕。
 彼となんらかのつながりがあるだなんて思われたら困るじゃないか。仲がいいなんて邪推されて、女子どもに詮索されたら面倒なことこの上ない。
 だから相手もそれを察して、つれなくそっけない態度に出たのだ。
 なんだってこれほど混乱しているのだ、僕は。まったく。

20050925
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