第三章 臺カオル 1
環境に適応する能力は、人並み以上のような気がしている。これは、誰にも言わないけどささやかな自慢。
新しい職場に移るたび、この水ももらさぬ完璧な仕事っぷりはどうだ。なんて。少しだけ自己満足に浸ってみたりする。こっそりと。
幸いなことにどこに行っても、苦手な業務も、性に合わない仕事も、ストレスを感じる人間関係もなかった。
振り返ってみれば、子どものころから今に至るまで、うまくやっていけないところなんて、めったになかった。ほんとについてる。
ただ、ひとつのところにとどまるのにすぐに飽きてしまうのだけども。
終わりが見えない、ずっとおんなじ人生が延々とつづくのかと想像しただけで、息がつまりそうになるし、気が滅入るし、腐ってしまうんじゃないかって思う。
最初に転職を決めたのも、そんなわけだった。
別に、薄給でかまわなかった。
新卒で入った企業の給料がむやみやたらによく、おまけに殺人的な多忙さで消費するひまがなかったから、使う予定のない金がふんだんに銀行口座に眠っている。まったくもって、年齢に不相応な桁の額だ。世の中って不公平なんだなあ。って俺が言えたことじゃないけど。
せっかく勤めていた企業を俺が辞めると聞いたときは、周囲の人間たちは口々に、考え直すように忠告した。この不況の時代に、安定した生活をむざむざ自分から捨てることはないだろうと。
それでも、強硬にとめることはしなかった。
「お前はいったん言い出したら、誰が何と言おうときかないからな、昔っから」
そんなことを言って。
しかし、俺がフリーターというかプー太郎というか、そういった類の仲間入りを堂々果たし、定職につかない暮らしを始めると、俄然みんなのひんしゅくの的になった。
「その年で、しかも男で。学歴があるくせに。根なし草の生活なんて」
「社会的地位が圧倒的に低いじゃないか。もし警察の取調べを受けることになったら、調書に無職と書かれるんだぞ」
「いくら勤労して収入を得ていても、まっとうなおとなとみなされないじゃないか」
なるほどね、いちいちごもっとも。
みんながやいのやいのとかまびすしく主張することも、たしかに一理ある。
俺は、ごうごうたる非難に、肩をちょっとすくめたものだった。
「んー。大丈夫だよ。クレジットカードはもう持っているから、新規で作ることもないだろ。それにローンを組んでまで買いたいものもないし。別にいいんじゃないかなあ? 保険も年金も家賃も光熱費も払えればそれでさ」
友人たちは、俺を、あきれ半分、あきらめ半分の表情で見やった。
「お前らしいなあ。いつでも、のらりくらりとかわしてさ」
「え、そおかあ?」
「そうだよ。のんびりおっとりしているふうで、芯が強いっていうか頑固っていうかマイペースっていうか。よく言われるだろ?」
「そうかなあ」
ううーん。俺に対する評は、正鵠を射ているかも知れない。真っ向からがっぷりよつにぶつかって、熱く意見を戦わすなど、俺の性にまるで合わないもん。するりとすり抜けるのが好きだ。頭を働かせて、誰も不快にならないように。
ごめんよみんな。
本気で心配してくれる者には申し訳ないけど、今のライフスタイルがなかなか気に入っているんだ、とうぶん改める気持ちになれっこない。
スーツを着ない生活が、こんなに解放的だとはね。
ネクタイ? なんだそりゃ。毎日自分の首を絞めて何が楽しいものか。あれは服従のしるしじゃないだろうか。社会や企業に対しての。犬をつなぐ鎖と同じだ。
俺には、自虐趣味は針の先っちょほども備わっていないらしい。
さまざまな職場に行き、さまざまな仕事を経験すると、世界が広がる。いろいろな能力が身につく。自分が日々進化していくのを感じる。それは実に楽しいことだ。
別にパソコンのスキルや外国語会話でなくても、ちっともかまわない。封筒はり、段ボール箱のくみたて、洋服のタグつけ。そんなささいでささやかなことをすばやくそつなくこなせることが、実は日常生活を営む上でで大切なんだと感じるんだけど、賛同してくれる人はあまりいないんだろうなあ。
職場を替わるたび、可能性がひらけていく。子どもならいざ知らず、はたちもすぎてそんなよろこびを味わえるなんて幸せじゃないかなあ。
俺って意外にいろいろできるんだなあ。たぶん、こういうのが世に言う「器用貧乏」ってやつかも。なるほど。
でも、器用というのは悪いことじゃない。どんな仕事をする上でも、非常に便利だ。
やっぱり、俺は運がいい。
半無職ライフも、こうしてのびのびとエンジョイできているし。
現在の職場は、大手の貿易商社。
こんな時代にあって、かなりの健闘をみせている。業界内でもトップクラス。
新卒で入るには、米粒に毛筆で般若心経を書くくらい気の遠くなる難関だ。中途採用だってやっていないはずだが、俺は派遣会社を通じて、難なくもぐりこめてしまった。
やっぱり世の中って不平等だ。
拍子抜けするほどあっさり面接は通った。
いやもう、面接っていうほどのもんじゃない。顔合わせして話をするていどで、はいおしまい。
本当は、企業が派遣会社を通じて派遣社員を採るときは、面接して落っことすのはいけないことらしいんだけど、そんな法律守っているところはめったにないんじゃないのかな。
ともあれ、俺がさっくりと仕事が決まったのは、肉体労働だからというのも大きい。
ただ体力があること、身元がしっかりしていること、ごくふつうの常識を持っていること、とりあえずやる気があること、これだけそろっていればいいよと言わんばかりのゆるさ、ぬるさだ。
ずいぶん鷹揚に思えるだろうが、これがデスクワークだったら、話は別。非常にハードルが高い。
肉体労働であっても、適性のあるなし、能力の高い低いは必ずあるもんなんだけどもね。そこいらへんがわかっちゃいないね。ブルーカラーをなめちゃだめだよ。
などと、こちらが文句を鳴らす筋合いはないので、めでたくありがたく俺はここで勤務を始めることにした。
気づけばそろそろ二か月が経過しようとしていた。
完全に予想外だったことがひとつ。
今まで渡り歩いてきたどこの職場とも、ちがっていたのだ。俺に対する扱いが。
まあ、いつものように長いこと腰を落ち着けるわけじゃないし、またすぐに別のところに移るんだから、別にいいんだけどもさ。
ふだんは倉庫にいて、在庫を管理したりしている。だけど、営業課への出入りもひんぱんにする。
営業課だから、営業事務のきれいなお姉さんや、ばりばり仕事をしているスーツの男どもがいる。俺もかつてはこういった場所にいたんだっけなあ、とほんのちょこっとだけ懐かしがりながら、部屋に入る。
懐かしく思えるということは、すでにこういった生活が過去のものになったということか。
営業事務の若い女の子が椅子から立ち上がった。俺には気づかなかったらしくこちらを向き、偶然、視線が合った。
途端、あわてたようにそらした。まわりにいた女の子たちが、くすくす忍び笑いをもらす。
またか。
就業した日、この営業部にもあいさつに出向いたのだが、そのときから彼女たちの反応は変化がない。
うーん。まあ、そりゃしかたないか。むさくるしいかっこうをしていたからなあ。
しがない肉体労働者たる俺は、こぎれいなかっこうなどせずに、相応な服装で来たのだが、見るからにおしゃれ大好きハイセンスな女子たちには、相当に受けが悪かったらしいのだ。
もしかして、俺に気があるんじゃなかろうか、などと血迷った発想がでてくるはずもない。
俺だって、我が身を客観的に分析することくらいはできるのだ。
課全体が妙な雰囲気になるなか、用事をすませて廊下に出た。
楽しげにおしゃべりしながら、制服姿の女子社員たちが向こうからやって来た。すれちがうときに妙に無言になり、行きすぎるとこそこそとなにやら互いにささやきかわした。
いつもの光景だ。
どんなことをうわさしているのか、つぶさに知ることはできないけど、さして気にもならなかった。笑われたくらいで、俺に実害がおよぶわけじゃないし。
俺が望ましい職場の人間関係のベストの状態は、特別きらわれも好かれもしないというものだ。いたら助かるけど、いなくても別段困らない、と周囲に思わせるように持ちこみたい。
きらわれると、居心地が悪いし業務に支障をきたすので避けたい。
好かれるのは俺も相手も楽しいけど、結局俺はまたふらりと別のところに行くわけだから。そのときに惜しまれでもしたら、ものすごく困る。
上司や同僚とそりが合わなくて、俺に嘆いてくる者は割と多い。AがBについて俺にこぼし、BがAについて俺に不満をもらしてくるのはざらだ。
俺がいなくなったらだいじょうぶなんだろうか。
摩擦なくつきあっていけるんだろうか。
愚痴を言う相手がいなくなって、欲求不満がたまったりしないだろうか。
心配だ。俺のせつなる願いはただひとつ、みんな仲よくやってほしいっていうこと。
だから、ほかの部の人間に陰口をたたかれるのは、なんでもないことなのだ。
自分の持ち場のひとたちとは、ちゃんとうまくやっているし。
文句も言わずに真面目に働いて、しっかり仕事ができて、口が堅くてぐちもきいてくれて、飲みに誘えば断らずについてきて、場を盛り上げる。
俺に対する評価は、こんなところなんだろうな。
ひとことで言えば、「都合のいいやつ」。
これこそが、誰も傷つかないし悲しまない方法なんだ。平和ばんざい。今日もいい日だ。
俺は、足取りも軽く、鼻歌でも歌いたいくらいの勢いで倉庫へと戻るのだった。