ふるふる図書館


おかわり10 ラ・ドルチェ・ヴィータ




「おじゃまします。おや。なんだ、桜田君、いないんだ」
 三和土に置かれた靴は家主のものだけだ。残念。からかおうと楽しみにして来たのに。
 そんなこちらの胸のうちを見透かしたのか、
「俺んちで湯川サンと顔を合わせるなんて無理なんじゃないの、すごく恥ずかしがりそうじゃん」
 ゆるゆるした口調と笑顔で牽制するような返事をよこす。ずいぶん警戒されているらしい。
 手土産の季節限定スイーツの入った箱を「桜田君と食べなさいね」と私に渡され、冷蔵庫に向かう中肉の背中を眺める。旧友の息子で、子供のころから面識があって、一時は部下だった木下俊介。いつもふわふわ笑っているような表情だけど、よくよく見ればその時々でちがいがある。あの子の前では、ちゃんと、裏のない顔をしていればいいのだけど。

 八年前。
 私に呼ばれた俊介は部屋に入ってくるなり、にこりとした。その種類の笑みを、久方ぶりに見た気がした。そうそう、上っつらだけの仮面みたいな、十代のころよく顔に貼りつけていたあれだ。長いこと見てなかったということは、仮面をかぶる必要がなくなってきたということなのだろうか。
 過去に思いを馳せる私に、俊介は前置きなしに切りこんだ。
「桜田の直属の上司は俺なので。桜田に言いたいことがあるならまず俺に話してくれませんかねー?」
 察しがついたのだろう。桜田君を呼び出して、店長である私がどんな話をしたのか。 俊介との仲を問題視するようなことを告げられたら態度に出るだろうし、そんな桜田君を見ればただでさえ勘のいい俊介はすぐにぴんとくるはずだ。
 のらくらとぼけた口ぶりに、怒りなのか不快なのかまではわからないが、珍しく負の感情がにじみ出ていた。小さなころから俊介を知っている人間しか気づけないだろうほどわずかだったが。
「きみも当事者なんだから、きみに先に話すことはできないよ? わかってるでしょう」
「あいつの耳に入れる必要ないんです。あいつの上司で七つも上なんだから、責を負うのは俺だけです」
「じゃあ。そのとおり、僕が桜田君になにも話さず、きみに『やめなさい』と言ったとしたら。どうするの、俊介は」
 上司としてでなく、幼いときから彼を知ってる者として質問したくて、職場で使っている呼称「木下君」をわざとプライベートなものに戻した。
「やめる」
 俊介もくだけた口調になって、軽くこたえた。
「なぜ?」
「あいつの不利益になることは全部、排除したいから」
「で、また、親しい子の手を離すわけだね」
「人聞きの悪い。気持ちの軌道修正をちょちょいのちょいっとするだけだろ。別になにも変わんないよ」
 その態度はあっさりしていて、無理をしている様子はさらさらなかった。実際にどんな関係なのか、相手のことを互いにどう考えているのか、そこまでは知らないし踏みこむつもりはない。ないのだが。
「桜田君はそんな器用な芸当できるかな。ずいぶん俊介を慕ってるのに」
「またまたあ。あいつは誰にでもそうだよ?」
 そらとぼけた雰囲気を変えない。もしも本心からそう言っているならとんだ見立てちがいだ。やや特殊な家庭環境で育ったせいか、俊介は洞察力が高く、やたら鋭い。しかしこの手のことにはかなり鈍である。いやそれでも、わからないわけがないと思った。
 つい先日だって。俊介が棚をチェックしている背後を、ふと桜田君が通りかかった。俊介は現場での作業をあまりしなくなっていたから、偶然出会えたのがうれしいようで、桜田君の口もとがほころんだ。声をかけようと口を開きかけ、閉じ、そのまま通りすぎようと体の向きを戻し、でも立ち去りがたく背中を見つめ、あたりをちらりと窺い(私が見ているのには気づかなかったようだが)、そっと足音をしのばせてすすすと俊介に近づき、隣にぴとっと止まった。それは「寄り添う」という言葉がぴったりくるような距離感で、ふっと顔を上げた俊介ににこにこしながら、耳もとでなにごとか話してほっぺたをわずかに赤らめていた。
 俊介の仕事のじゃまにならないように、周囲の迷惑にならないように、妙なうわさを立てられないように、そんな気遣いからの一連の態度だろうし、すぐに離れていったからたんに挨拶をしたかっただけなのかもしれないが、見ていた側としては胸の奥がむずむず、そわそわ、落ち着かなかった。慎ましやかなのにきらきらした空気は、隠そうとしても隠しきれていなかった。
 そんなしぐさも視線も、俊介以外の誰にも向けていないんじゃないのか。
「だから、俺、ロンドン行くね」
「話をずいぶん先回りするね」
「転勤を言い渡すのが本題だったんだろ? 変な気をまわすことないよ。ちゃんと職務はまっとうするんでご安心を」
「ものわかりのよすぎることで」
「会社員の鑑だよねー、我ながら」
 店長としての立場なら、桜田君との甘いムードを職場でかもし出すのはやめなさいと注意せねばならない。さきほど桜田君と話したのは、そういう意図もあった。ちょっと意地悪したくなって余計なことも言ったが、俊介はこの方面においては感覚が多数派と大幅にずれているから、苦労するだろうなと心配してのおせっかいだった。
 しかし桜田君は俊介を慮ってふつうの上司部下の関係だと断言し、俊介も桜田君を想ってふつうの上司部下になると宣言した。それなら、私はなにも口を出さないほうがいいのじゃないだろうかと思った。

 木下家への訪問は、ごく自然に酒盛りと化していた。宅飲みなので、両者ともにえげつない勢いでグラスを空けていく。
「うん、よかったよ。俊介が桜田君との関係をずっと続けてて」
「そなの? 終わらせようとしてなかった?」
「いや見守るつもりでいたよ。最初からね。桜田君がいれば、俊介にも少しはちがう価値観が芽生えるかもしれないって、期待したしね。ことこの類に関しては、きみの考えは世間一般から外れすぎてるから」
 ふうん、と軽く応じた俊介は焼酎の梅酒割り(割り材がなくなったせいだ)をあおり、「ずっとは続いてないなあ、いったん終わってる」とさらりと告げた。
「それは初耳だ」
「そーね。ま、あの子もきっと知らないねー。ふふ」
「いつ?」
「ロンドン行ってからこっちで再会するまで、かなー」
「遠距離は難しかった、と?」
「そーゆーこっちゃないんだなあー。俺だってね、少しは考えてんの、こう見えても。あの子、湯川サンに言われたことかなり気にしてたし、転勤を機にフェイドアウトしたほうがあの子のためになるのかなあーって。音信もプチ不通にしてさ」
 私との面談を、桜田君は想像以上に重く捉えていたようだ。
「そだ、向こうでの生活ね。いろんな人を誘って、しけこもうとしたの。でもできなかったんだよー。合意を得るのは簡単なのにさ、その先に進めなくって。何人も試してみたけど、全員だめだった。この俺がだよー。なんでだったんだろ?」
 アルコールの席とはいえ、赤裸々すぎる告白だ。桜田君は下戸だから、つられて酒量が減っているのかもしれない。それで自分の適量の判断が狂っているのだろう。顔にはあまり出ないのだが、そうとう酔っぱらっているとみた。
「そういうとき、桜田君のことは考えなかったのかい?」
「そうそれ。あいつの姿が頭に浮かんだよ。変なのー、全然関係ないのにねえ。相手はさ、誰だってよかったのに。えっちなんて似たり寄ったりじゃんね、誰としてもさあ」
 そういう考えで生きてきたわけか。まあ、うすうす気がついてはいたけど。
 あれは特別な行為だから特別な相手とじゃないとしないものだというのが社会通念だということを、教えたほうがいいのだろうか。「それが多数派? だからどうした?」と心底不思議がられそうだ。桜田君がそれでいいなら、私がとやかく言うことではないだろうが。
「でもさ。あの三年間、誰ともできなくてよかったみたい……」
 とろんとした目と声で俊介が笑う。前傾姿勢でほおづえをついて、もう睡魔にさらわれそうだ。
「コーキはさ、俺のトクベツだから。もし、他のやつとしてたらさ、俺はコーキに絶対に絶対にさわれなくなった気がするの。だって、あいつはトクベツだもん。他の誰ともちがう存在にしておきたいんだもん……」
 眠さでぐずりだした幼児みたいな口ぶりとしぐさで、やたら可愛げのあることを言い出した。
 そういう感情がとうとうこの俊介にも生まれたのか。なにやら妙に感慨深くなり、私は水割りの「神の河」を祝杯がわりにひとりそっと傾けた。

20160809
PREV
NEXT
INDEX

↑ PAGE TOP