ふるふる図書館


おかわり9 ビューティフル・ネーム




 木下さんは、俺のことを名前で呼ぶようになった。いつからだっただろう。
 上司だったころは、職場ではだいたい苗字で呼んでた。バイト男子で下の名前で呼ばれないの俺だけだったから、よくおぼえてる。プライベートでは「コーキ」ってふざけておちゃらけた口調で言ってたこともあるけど。今はちゃんと呼んでくれてる。おおむね。
 で、俺は。
「木下さん。昨日の残りのカレー、うどんにしちゃっていいですか?」
 部下だった時代と同じく、苗字にさん付けだ。
 だって、いい歳の男を下の名前で呼ぶなんて、親族でもあるまいしおかしいだろ。それに、七つも上の人を呼び捨てなんかできっこないし、かといって名前にさん付けするなんて、猛烈に恥ずかしい。古風な新妻みたいじゃんかそんなの。
 だから、いちばんしっくりくるんだ。「木下さん」が。
「うわーい、公葵のカレーうどん、めっちゃうまいんだよなー。楽しみ〜」
 俺が名前で呼ばれるのは全然違和感ないんだけど。そりゃ年下だもんな。だけど、俺たちいちおう、そーゆー関係になっているわけだからして、お互いに名前呼びしたほうがいいのかな……。木下さんにさっきそれとなく聞いてみたけど特に要望を出されなかった。でも、いつまでも他人行儀だとか思われてんじゃねーかなあ。
 キッチンに向かってぐるぐる考えていたので、気づくのが遅れた。死角から木下さんが忍び寄ってたことに。
「どわっ」
 両腕が俺の胴体にくるりと巻きつけられて、色気もへったくれもない悲鳴が出た。
「どしたん? なんか悩みごと?」
「え、いえなんでも……」
 ああせっかく俺が打ち明けやすいように仕向けてくれてんのに、俺はいつもこーやって隠してしまう。互いに顔が見えなくて、話しやすい体勢まで作ってくれてんのに。
「そお?」
 ますます体を密着させてくる。ついうっかり平常とちがう吐息をこぼしてしまったのは、ぶ、物理的に苦しいからであって! 胴が締めつけられてるからであって!
「ま、まだ料理、終わってない、から……」
 うう、発話能力が急速に失われていく。
「もうほとんど終わってる、だろ? お前の手順、お見通しだよ?」
「なん、で、こんな、急に……」
「スパイスってさ、媚薬効果あるの。知ってんだろ?」
 そんな意図でカレー作ってねーわっ! 接射で耳に流しこまれる甘みたっぷり低音ボイスのほうが媚薬だろ。立ってるのつらい。
「前からすっごく感度よかったけどさ、どんどん過敏になってきたよね? どーしてかな?」
 アンタのせいだろ。元凶がよく言うよ!
「どれどれ。ふむふむ。調べてみよう」
 いったいなんなのこのシチュエーション。少女漫画かメロドラマ(死語)か? エプロン姿で背後からあれこれされてる俺は団地妻か日活ロマンポルノ女優か? 自分たちの現状を俯瞰しようとして、全身の血がどかんと沸騰した。その変化が木下さんにまるわかりだと思うとさらに臨界点を突破しそうになる。恥ずか死ねる。
「公葵、こっち、向いて?」
 催眠術にかかって操られてるように、俺の顔は迷いも恥じらいもなく素直にすーっと木下さんのほうへと近づいた。も、なにも、考えられない。自分の体が自分のじゃないみたい。
 あ、このタイミングなら、呼べるかも……。むしろこういう状況下で呼ばなくてどうすんだ。俺は意を決して口を動かす。
「しゅ、け、さん……」
 うわごとか! 滑舌! 呂律!
「可愛い。もっと、呼んで。公葵」
 俺の言いたいことなんでわかんの。マジでエスパーかよ……。
「しゅん、すけ、さん……。しゅんすけさん。俊介さん」
 うわずった声音で何度も繰り返すうちに、ぽわんと視界がにじんできた。これは、そうだ、やり遂げたっていう達成感だ……。別に、嬉しさだとか、幸せだとか、そんなんじゃない、ちげーから。
「そんなことで悩むとか、可愛すぎんだけど」
 あ。読まれてた。
「名前で呼ばれたいなあ、と少しは思わなくもないけどね。そーゆーふうになってるときにだけ呼んでくれるっての、ものすごくえっちいしそそるし興奮するしギャップ萌えだから。今のままでいいよ?」
 なにそれなにそれ! 呆然とする俺を、にっこり笑ってするりと解放した。まさか終わりとか? 俺に「現状維持でどうぞ」と言いたいがためだけで始めて勝手に終わるわけ。なにそれなにそれなにそれ! 解せぬ。解せぬわ! 火をおこしたんだから、消火活動までしてけや!
 足腰がふらふらで、へたりこみそうで、トイレに駆けこめもしない。ひとさまん家のトイレでひとりで鎮火に励むのもどうかと思うし。
「待、って……」
 なんとか、相手の両腕をつかむと、平生と変わらないとぼけた笑顔を向けられる。うわ腹立つわ。可愛いって言ったくせにこんな俺を見捨てていけるわけ。中途半端でおしまいにできるわけ。こんなんなってる俺を見てもその気にならないわけ。ああくっそ。
「やめちゃ、やだ……」
 ちょ、俺の口調、キモイ……。舌足らずで、弱々しくて、泣きそうで、切なそうで、ぐずぐずで、なのに熱っぽくて。自分で引くわ。木下さんにだってきっとキモがられる。涙出そう。
「なにを?」
 い、言えるかー! 素面だし、まだ日も落ちきってねえっつの。どうすりゃこの人のスイッチ入れられんだよ。えっちいこと口にすればいいのか?
「しゅんすけさん……」
 小さい声で力なくささやいた瞬間、くらりとめまいがした。体温が上がりすぎてぽろっと目から水滴がこぼれた。スイッチがオンになったの、俺のほうかよ。ふだんは理性に阻まれて封印してる自分とその声に刺激されて、どんどん肌が火照って紅潮していく。
「おねがい、はなれないで……。しゅんすけさんがしてくんないと、やだよぉ……」
「……えっち」
 俺のほっぺたに垂れたしずくを、あたたかくざらざらしたものがぺろりと拭ってくれた。俺たちの両手がふさがってるせいだ。
「公葵、俺はね、好物は最初に食べるタイプだよ? そんでね、お前の料理はどれもうまくて好きだけど、いちばんうまくて好きなのはね、」
 言いざま、その口がぱくっと食いついたのは、俺だった。「よくもだましたあああ!」とヒストリエの主人公なみに叫びたくてもせき止められてできねえ。
 真っ赤になって、涙目になって、息が上がって、震えてるのは、苦しいから。悔しいから。怒ってるから。恥ずかしいから。であって。そんな照れくさそうで嬉しそうで幸せそうな顔すんなよ、俊介さん。と、その淡い色の瞳に映ってる俺ェ……。
 カレーの香りたちこめる部屋でなにやってんだ、という至極冷静な心のツッコミもうすれていき、木下さんのいちばんの好物は食されてしまったわけだが、へらへらなだめる木下さんを前に「もう二度と名前呼びするもんか」とカレーうどんを無言ですすりながら誓いを固めるのはその三時間後。
「もおそろそろ、機嫌なおしてよお、コーキちゃーん」
 昔と変わらず軽やかすぎる態度に、ふっとひとつ記憶がよみがえる。会話するのは不本意ながらも、確かめずにいられなくて、ぶすくれながらも問いかけた。
「木下さんは……、別にあんなふうに俺に名前呼びされたくないんじゃないですか」
「どゆこと?」
「だって。ああいう最中に言うこと、信じないんじゃなかったんですか。我を忘れて流されて口に出すことなんて、真実じゃないって」
「ああ。そんなふうに考えていた時期が、俺にもありました。でももうね、それはいいの」
 どんぶりを抱えうどんをずるずるしたまま上目で睨む俺の頭をよしよしと撫でる。
「もういいの。わかったから。いいの」
 たいそう晴れやかにイミフな返事をして、木下さんは柔らかく微笑んでいた。

20160514
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