ふるふる図書館


おかわり5 ブレイク・ザ・タブー



 扉が閉まる、かすかな音で目がさめた。身じろぎすると、全身の肌に清潔なふとんとシーツがさらさら滑って心地いい。なにも身につけずに眠ることの気持ちよさは、木下さんと今みたいな関係になってからおぼえた。
 今みたいな関係、てのもよくわかんないんだけど。
 せっかく久しぶりに会えたのに、あまり話をしなかったな、と残念に思う。俺は、木下さんとはメシを食ったりしゃべったりするほうが楽しい。服を脱がないとできないようなことなんて、しなくたってもかまわないのに。
 きっと、木下さんはコンビニにでも行って夕食を買ってくるんだろう、俺のと自分のと。俺がベッドから起き上がれなくなるくらいいじめたんだから、食事の調達をしないとならないのは自業自得だ。
 でも。作りたかったな。木下さんに。料理。俺ができることなんか、これくらいしかないんだから。
 木下さんは、俺なんかにかまってていいんだろうか。もし俺が女だったらこんな、収入が低くて顔が平凡でおつむが残念でなんの取り柄も貯金もないような人間とは断固結婚したくない。木下さんみたいな、高学歴で高収入、将来有望なハイスペック人間が、なんで俺みたいな甲斐性なしのごくつぶしを相手にしてんだろ。なんのうまみもないのにさ。
 若さを、二十代後半にさしかかった俺に求めてるはずないし。体目的か、という疑念も起きないほど、致した回数はささやかだし。稀少な体験を振り返ってみても、俺がはふはふ言わされてばかりで、木下さんが満足したふうにはとても思えない。
 四年前に再会して、貯金通帳を見せられて、一緒にいようという主旨のことを言われた。その誘いにホイホイあっさり全面的に乗っかるのはさすがに図々しすぎるし養ってもらうみたいでいやだから、ちゃんと職を探し直して働いて貯蓄を作ることにした。木下さんに話を聞いてもらって相談に乗ってもらって、今の仕事はうまくいって続いてる。木下さんはまた俺を助けてくれたんだ。
 そのあと、俺たちは忙しくなった。木下さんは勤務地が変わり、海外にこそ行ってないけど日本のあちこちに出張してる。会うのはひと月に一回か二回、それより間が空くこともざらだ。メールのやりとりだって、何週間に一回か、程度。俺の送信に返信してくれないことも珍しくない。ああこれTwitterかリプライ来ないやつだ、と思ってとっくのとうに諦めた。放置プレイってやつですかね? 嫌われてるんじゃなさそうだけれど、木下さんにとって俺は最優先じゃないってことはわかる。木下さんばかりが俺にメールを送っていた日々があったなんて、信じらんないくらいだ。はは。時が移れば人の心も変わるよな。ゆく河の流れは絶えずして、色即是空、祗園精舎の鐘の声。過去にしがみつくなんて馬鹿みてえ。
 俺は木下さんにもらったものはたくさんある。仕事を助けてもらって、ごはんもおごってもらって、宿題を教えてもらって、話を聞いてもらって、家に送ってもらって。でも俺が木下さんにあげたものなんて、全然ない。せめて、楽しいコネタメールでも送ってほっこりしてもらいたいけれど、迷惑なんじゃないか、リアクションしなきゃって考えるのが負担になるんじゃないかと思うとメールボタンは押せない。返信はもう期待しないけど、うっとうしいのかなんとも感じてないのか、はたまた歓迎してくれてんのか、わからない状態はたまに、ごくたまーに、ほんのちょっとだけ、しんどくなる。
 ああそうだ、あの四年前の提案は、俺がやんわり断ったと木下さんは思ってるんじゃないか? あれっきり、口にのぼることないし。その話を切り出せる立場にない俺からは、触れることができないし。やっぱり立ち消え、なのかな。俺のこと、もうそういう目で見てないのかな。
 そのくせ、たまに顔を合わせると、昨日ぶりみたいにふつうに楽しそうに笑ってはしゃいで、甘えてベタベタしてくる。ほんと不思議な人。不思議な関係。なんなのこれ。
 でも、きっと。こんなふうに、つかず離れずの関係だから、続いてんのかもしんない。新鮮で飽きが来なくて、顔見られただけで笑っちゃうし、ささいなことにいまだにドキドキしたりできるのかも。
 俺のライフプランには結婚も子づくりもないからいいんだ。親は嫁や孫が見たいのかなあ。そういうのは兄貴に任せるや。幸か不幸か、ハナから親に期待されてなかったしな。だけど、木下さんはどうなんだろ。結婚や子づくりをする願望はなくても、ずっと一緒にいたい相手ができたらどうすんだろ。

 つらつら現状を再確認しているうちに、うつらうつらしてしまったらしい。またも、ドアがかたんと小さく鳴った。足音やレジ袋ががさがさ立てる音が近づいてきたが、目を閉じたまま木下さんの気配に集中した。
 部屋に入ってきた木下さんが、ちゃぶ台になにかを置く。チンしてきた弁当かなにかだったら、早く食べなきゃだなあ、とうだうだ考えるうちに、木下さんが近づいた。
「疲れてるだろ。まだ寝てな」
「んんー……。うん。わかった……」
 寝ぼけ半分でうなずくと、「可愛い」って髪を撫でられた。そんなこと言われても、昔はあんまり嬉しくなかったのに、外見で可愛さから遠ざかってる今は、肺の奥がむずむずくすぐったい。俺は、できるかぎり敏捷に両腕をのばして木下さんの首根っこをがっちりホールドした。大事なことなので二回言うが、あくまでもホールドしたんだ。抱きついたわけじゃない。そうとしか見えないとしても決してそんなんじゃない。
「あれ、足腰立たないかと思ったけど元気そーじゃん? 若いっていーね」
「木下さんの足腰も、立たないようにしてやりたい……」
 俺はつぶやいた。俺の口元が木下さんの耳元にあるのはしかたないことであって。甘いささやきとか、そんなんじゃねーから。小声なのは寝起きでかすれてるだけだからっ。
 ぷっと吹き出す声と「やれんのか?」(総合格闘技興業のキャッチコピー?)という問いかけが聞こえた。
「だって……俺ばっかり」
「ずるいって?」
 先取りされた言葉にうなずきかけて、首を振った。いやいや、これはほっぺたすりすりしているわけではなくって。焦れたからだ。今日くらい、ほんとのこと、言わなきゃ。
「や……ちがくて。不満なんじゃないかって。物足りないんじゃないかって」
「誰が?」
「き……し……しゅ、俊介さん」
「ははっ、杞憂ってヤツだよそれは。最中に、すっぽんぽんのコーキにちょうどこんなふうにぎゅーって抱きついてこられて、興奮とあえぎすぎでかすれた声で『俊介さん』って耳元に甘く色っぽくささやかれてほっぺたすりすりされたりするたび、軽く天に召されてるから」
「はあ……っ? やっ、そんな、えええ!」
 頭部から、不可視の炎がごおっと噴き出た。もしこの炎が見えるものなら、さながら映画「マッドマックス 怒りのデス・ロード」に出てくる、火炎放射器つきギターだよ! なんてこと言うんだよおこの人は……! つか、今の状況どんぴしゃりじゃねーか。ぴったしカンカンじゃねーか。
「ふ、ふざけないで、真面目に話してくださいっ」
「真面目だよ」
「俺は……俊介さんとしか、こういうことしたことない。上手なのか下手なのかわかんない、でもたぶん下手です。だから、どうしたらいいのか教えてください」
「誰かと比べてもしかたないよ?」
「下手ってのは否定しないんですね?」
 俺がまだガキだったころは、木下さんは大人だから上手なんだと思ってた。しかし、当時の木下さんと同じ歳になってみて気づいた。踏んだ場数の差じゃないかと。そりゃそーだ、なにもせずに上達なんかするはずない。
「あのね。お前はトクベツなの。トクベツだから、他の輩とは違ってていいの」
 そんな、「みんな違ってみんないい」(金子みすゞ)みたいなフレーズで納得できるもんか。
「上書き、できませんか」
 腕をほどいて、真正面から木下さんを見た。
「俊介さんが満足した体験の数を、俺が越えればいいんですよね? 上書きはできなくても、比率としては大きくなりますよね?」
「ふうん、そんな計算できる子になったんだ? 成長したね?」
 笑う木下さんの唇に人さし指を当てたら、素直に黙ってくれた。そのまま左右にゆっくり滑らせると、ふわふわな感触が指先を押し返す。
「ふふっ、柔らかー」
 俺にちょっかいかけないでくださいね、従順におとなしくマグロしててくださいね、としつこく念押しし、そのまま、あちこちも同様に撫で撫でしていく。木下さんの息づかいや表情や仕草がだんだん通常のものでなくなってきて、嬉しくなる。あんなにへらへらふわふわ飄々とした人が、俺に翻弄されてくれてるなんて。胸が一杯ではちきれそうだ。う、なんかヤバイ。
「ああもう、駄目……」とつぶやいたら、「それってこっちの台詞じゃね?」とかすかな呼吸で笑われた。
「だって、俺、おかしくなりそ」
「だから、それ、こっちが言うことだって」
「今言うと怒るのは知ってるけど、言わせてください」
「な、にを?」
「……好き……」
 瞬間、木下さんの肌がぎくりと震えた。
「ごめんなさい。言わなかったら、爆発して死んじゃいそうです」
 木下さんの睫毛も震えた。その隙間から、水滴がぽろりと落ちた。
「やっぱり、怒り、ましたよね」
「……馬鹿」
 はあ、とためいきをつかれた。どんだけ気分を害したんだろうか、とおもんぱかっているうち、顔を手で覆ってしまった。そんな木下さんの姿を見るのは初めてだ。
「なんで……こんな、俺。わかんない。なにこれ。やだ。どうしよ」
「そんなにいやでしたか」
 さすがに、ちょっと傷つくぞっ。
「もう言いません。ひとりで爆ぜます。謝りますから。機嫌なおしてください」
「この、ド天然」
 結局のところ、顔が赤くなるほどの怒りを煽ってしまったらしい。拗ねたようにぷいとうつぶせになってシーツに片頬を埋めてしまった。ああ、言わなきゃよかった……。俺のあほたれ、と後悔しながら、そっと耳に口を近づけた。
「でも、本心だから。嘘じゃないから。言わずにいれなくて」
 木下さんがまたためいきを吐き出す。その切なそうな震えと、熱っぽさと湿っぽさで、俺がなぜ「ド天然」と罵られたか遅ればせながら悟った。なんとなく。
 木下さんが、自分の髪をわしゃわしゃかきまわす。
「ああ……。こういうこと、か」
「どういうこと、ですか」
「いくらニブチンでも、聞いていいことと悪いことがあるぞ? 言わせんな恥ずかしい」
「じゃあ、がまんします。泣かせちゃって、すみません」
「ばーか。俺を泣かせたい、んじゃなかったの?」
 ぽろぽろ滴を落としながら、木下さんが首をねじって俺を見上げた。
「泣かされてやるよしょーがねーなー……」
 強気な台詞を、乱れた前髪に隠れがちになったピンクに染まる目元と、それにふさわしい口ぶりが裏切った。いいんですね、言質は取りましたよ?
 ああ、さっきの俺が容赦なしにいたぶられたの、納得できちゃう気がする。
 俺がついうっかりといじめられたい旨を告げてしまったように、今度はアンタ自身が、泣かされたい由を表明したんですよ?
 その涙の成分が、幸せでできているなら、俺はいくらでも流させたい。

20151021
PREV
NEXT
INDEX

↑ PAGE TOP