ふるふる図書館


おかわり6 ハーベスト・シーズン



 長年交際していた彼女と結婚してから付き合いがめっきり減ったが、同期入社の谷村は、まだ同じ店で働いていたころしばしば一緒に飲みに行った。どちらも酒に弱いほうではなかったが、酔うと俺はさらによくしゃべり、ふだん寡黙な谷村もそこそこ饒舌になった。
「木下ってさ、バイト君たちのうち、桜田君のことだけ名前呼びしないよな」
 どの話の流れだったか、谷村がそう指摘した。
「ん。そーね」と軽々しくあいづちを打つと、なにか理由があるのかと聞いてくる。
「べっつにぃ。深い理由はないけどぉ?」
「だけどあの子は気にするかもね。俺は木下さんに嫌われてるのかもーなんて」
 一理ある。だから、あいつの十八歳の誕生祝いの夜、しっかり「公葵」と呼んでみた。そしたら相手はうろたえまくった。あわあわ振り回した腕の残像で千手観音に見えるくらいに。それはそれでおもしろく可愛かったが定着させる気持ちにならず、その後は気持ちも心も重みもこめずに「コーキ」と呼んでみたり、やっぱり苗字に戻したりした。
 などと、気だるい体をふとんに包んだまま十年近く昔のことを思い起こしていたら、
「まだ寝ます? おなかはすいてません?」
 話しかけてきたのはそのサクラダコーキだ。
「のど乾いたでしょ。少し、口開けて」
 つんつんと唇に固いものが当たり、次いでするりとさしこまれた。ストローだ。吸いこむと、冷たいお茶がのどを通って心地いい。そんなにあえいでたの俺。
「次、これです。飲みこまないで噛んでくださいね」
 ストローが外されて、つるんとした小さいまるいものが口に滑りこんでくる。もぐもぐしてみると、枝豆だ。さっきのハーフタイムに俺がコンビニで買ってきた冷凍の。ちゃんと解凍されて、いい塩梅にほかほかだ。疲労困憊した身に染み渡る。冷食すらこいつにかかると美味くなるのか。
 咀嚼と嚥下が終わるたび、目をつぶったまま口だけ開けて無言で豆をねだった。餌づけか。いや、甘やかされてるってのが正解か。さっきも、俺がぽろぽろと流した涙を、なにも聞かずにそっと拭ってくれていた。
 仕草はすべてがやさしく柔らかかった。ゆっくり丁寧なのは、攻守逆で一戦まじえた後で、体力消耗したせいなのかもしれんけど。ひとつひとつ俺の反応や表情を注意深く観察し、確認し、調査していたのはこいつの性分によるんだろうか。
「気持ちいいですか?」「痛くないですか?」「いやじゃないですか?」「つらくないですか?」「疲れてませんか?」「感じますか?」……あー、もーっ。いちいち聞くな馬鹿。ばかばかばーーーかっ。いたわったつもりかよ。いたわれてねーよ。ぐったりだよ。へとへとだよ。声出しすぎてのどがらがらだよ。泣きすぎてまぶたぱんぱんだよ。下手かどうかなんて気にしてんのかよ。
 自分の快楽だけ追及しようとか思わんのか。経験人数も回数もビギナーレベルのくせに。
 なのに、百戦錬磨の俺をあっけなく泣かせるとか、どんだけマイスターだよ。俺だって、あえがせるよりあえがされるほうが好きだっていう自覚が生まれたガキのころから、「タラシ」と言わしめるスキルを生かして、数えきれないほどのヤツらとこんなことしてきたのにさ。そいつらと同じことをしたら、させたら、こいつも同類になってしまいそうで、そんでしつこくNG出してたのに、無駄な心配だった。無用の懸念だった。詮ない危惧だった。ばっかみたい。
「どうしたんですか」
 心配そうな声が降ってくる。またしても、睫毛の下からぷくりと水滴が膨らんだのが見えたのか。まぶたを閉じていても隠しおおせなかったらしい。
「このところ涙もろくていかんわー。歳はとりたくないもんじゃわい」
「いやなことでも、あったんですか? それとも、俺のことやっぱり怒ってるんですか」
「いやなことなんかないしー、怒ってなんかないし」
 俺は反対側にころんと転がり、ふとんをすぽんと鼻までひっかぶった。
「ほんとに、子供ですか」
 困ったような笑ったような公葵の声。後頭部の髪をそっと指で梳かれる。
「お前のせいだ。お前が甘やかすから駄目なんだ」
「ええ……、俺ですか……」
 俺は公葵にしばしば「甘えた」って言われる。十年前なら「七つも下のくせに生意気だ」って反撃してたかもしんないけど。むしろ甘えさせるのは俺の役割だったはずだけど。
 俺からは公葵にあまり連絡を取らない。あまり密な関係になったら、こいつが俺のもとから自由に離れていけなくなる。母親だって俺を置いて出てったわけで。自分がみんなに好かれる人間だなんて夢見たことは一度もない。
 だけど公葵と接するとにこにこへらへら陽気に朗らかにふるまう自分がいる。それは相手を楽しませたいから。笑顔にさせたいから。……という理由だけだろうか。本気で手放していいなら、方法を変えるべきなんだから。
「そういえば、こないだ俺、見合い薦められましたよ」
 不意に、公葵が話題をかえた。相手は小学校時代の同級生の妹だという。
「ふうん。同級生をオニーサンと呼ばなきゃなんなくなるねー」
「そーですよねえ。んー、微妙だなあ」
 世間話のノリで応酬し合ったところでふと思いつく。これはそんなさらっと流すべき会話じゃなかったんじゃねーのか。公葵はなんの含みもなさげな、何気ない口調だったけれど。いや、それもどーなの。
「木下さんは、ないですか。それとか、なんでケッコンしないか聞かれるとか。俺みたいな人間でもこうなんだから、木下さんもいろいろ言われてんじゃないかなって」
「安心してください。言われませんよ。ふふん。何年、我が変人キャラを貫いているのかご存じか。そんな面倒ごとからは我は自由なのだ」
「そのためのキャラ作りだったんですか?! 俺もその手でいこうかなあ」
「お前にできんの? 修行の道は険しいぞ?」
「なんか、申し訳なくなっちゃうんですもん」
「せっつかれてウザイ」じゃなくて「相手に対して済まない」なのがこいつらしいなあ。お人好し。ふふふ。
「ワケあってケッコンできないコイビトがいるって言えば?」
「…………は?」
 ん?
 まだ俺は背中を向けてたから、怪訝そうな声を出した公葵の表情がわからない。
「それは……事実としてですか? 方便としてですか」
 ああ。そういうことか。
 うん、なんだろ、俺としたことが頭がうまくまわんないや。自分らしくねーなあ、お互いを追いつめるような流れに持っていくなんて。
 もぞもぞと寝返りをうち、鼻よりも上だけをふとんから出したまま、質問してみる。
「前者だったら?」
 公葵はぽかんとしている。
「それ……誰のことですか」
「俺……じゃ、ねーの?」
 おちゃらけて問い返そうとして、失敗した。この局面でトチるとか、しゃれにならんわ。
 公葵が視線を下に逃がす。と、
「うええええええっ!」
 奇声を発して、床に崩折ればたんと突っ伏してしまった。さしもの俺も虚をつかれて起き上がった。とっさに上掛けから伸ばしたむき出しの腕が、秋の空気に触れてひやりとする。
「どしたっ?」
「……俺たちは、そーゆー関係なんですかね……」
「いやなら撤回する」
「いや、そうじゃなくて」
「いやなのかいやじゃないのかどっちだよ?」
「あう、いやじゃないです、でも。改めてそう断言されると、どうしたらいいのか」
 両手で顔を隠しているので、耳とほっぺたの一部しか見えないが、どっちも真っ赤だ。脱力したみたいで、そのまま動かない。
「ふふふ。心配すんな、俺もわからんから」
「……マジですか」
 少しだけ手を下げて目だけを出して俺を見る。
「うん、俺、超初心者だもーん。だからさセンパイ、コーチしてよ?」
 顔を逸らせないように、両手でむに、と熱すぎるほっぺたを固定して目をのぞく。
「な、なにを」
「レンアイのしかた」
「お、俺だって、知らないよっ!」
 公葵は頭部が紅潮しすぎて涙目で、敬語もすっ飛んでしまってる。いじりたいいじめたいからかいたい。可愛げのないムサイおっさんになってやるって昔豪語してたけどさ、どだいお前がなれるわけねーだろ。
「ふーん。なーんだあ。お前になら教わりたかったのにー。じゃあもーいいよーだっ」
 俺がぷーっとむくれてみせたら真に受けて、狼狽したていで瞳を揺らした。
 笑って両手を取り、低く柔らかく名前を呼ぶ。「は、はい」とおずおずこたえる相手に、俺は真剣で真摯な表情と声音と態度でささやいた。
「この歳で初心者どうし、ってのも一興かもね。だから。俺と恋人になってください。公葵」
 年貢の納めどきってヤツかなあ? 一生、誰にも言うことないはずだった台詞を口にしちゃった。あはは、俺、ヤキまわったな。
「うぇ、なにそれ。今さら言う? しかもいきなりかよ。マジで、今さらすぎ……なんなの……」
 口を尖らせてぶつぶつつぶやいて視線をあちこちうろうろさまよわせた挙句、小さい小さい声で「なり、ます」と素直にうなずいてはにかむ公葵を見たら、そんなんどうでもよくなったけどさ。

20151108
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