ふるふる図書館


後日談  アゲイン・アンド・アゲイン again and again 2



 バイトを上がる時間になった。まだ店で飲んでた木下さんが「うち来るだろ?」とごく自然に誘う。
「電車はまったく動いてないし、道路は大渋滞だぞ。泊まっていきな。まだ余震が続いてるからひとりになったら危ないし」
 マスターがほっとしたようすで「よかったな桜田君」と言う。マスターは自宅が徒歩圏なので俺のことを案じていたんだろう。断ったところでどうするあてもなく、木下さんのアパートに行くよりなくなった。家には連絡がつかないが、いたしかたない。
「木下さんはこの時間によく帰れましたね」
「うん。これ愛車」
 店の前に停めてあった自転車に鍵をさしこみながら言う。うっそ。ここからあの店まで電車で三十分かかるのに。
「車ないからさ、チャリ通勤してた。それがラッキーだったわ」
 なんで車を買わないんだろうと内心首をひねりつつ、自転車を押す木下さんについてアパートに行く。ドアがひらいた瞬間、懐かしさに俺の体中の細胞がふわっと毛羽立ったような気がした。未曽有の災害でこちこちになっていた心が、ゆで卵の殻のようにつるんと剥けたのがわかる。
「おお。想像したよりももの倒れてねーなあ。揺れと平行に建ってんだな、この家。やるな」
 そんな俺には頓着せず、のほほんとした口調で感心しつつ、木下さんはあちこちチェックしてまわる。手伝おうときょろきょろして、ひとつ気づいた。
「あ。テレビ替えたんですね」
「うん。今年アナログ終了するからな」
 前にもそんな話したっけ。三年後、俺と木下さんはどうなってるんだろうって考えてたあのときの俺に言ってやりたい、こうなってるよって。
「さてと、どうする? 茶でも飲む?」
「木下さんは疲れてますよね。明日も仕事行かないとでしょ、もう寝ましょうか」
「やれやれ冷たい子だなあ」
 俺と並んでガラスのちゃぶ台の前に座って、相も変わらずへらりんと笑う。この状況下で木下さんといるのは、すがるみたいでいやだ。俺は不安で、木下さんは平静そのもので。どうしたって、精神安定剤がわりに利用することになるじゃん。
「あのですね。吊り橋理論ってありますよね。安全な場所に下りたふたりは、長続きすると思いますか? 恐怖とか、緊張とかを勘ちがいしているだけだったら、想いはあっさり冷めてしまうんじゃないですか?」
 だから、ドラマチックなときじゃなくて、何気ないありふれた生活の中で、木下さんと接したいんだ。快楽を相手への想いと錯覚するなって釘を刺してた木下さんなら、同意してくれると思った。が。
「健やかなるときも、病めるときも、って言うじゃなーい?」
 ギター侍かよ? 予想外の返しに、俺ははっと思い起こす。木下さんが風邪で寝こんだときに俺が口を滑らせたことだ。そのあとに、木下さんが俺の左手の薬指に水風船の輪ゴムをはめてくれたんだった。うっわ、なんてこっ恥ずかしいことしてくれてんだこの人。と俺。
「笑ってるお前は可愛いけど、笑ってないお前もお前だからね」
「ずっと連絡くれなかったから、俺のこと興味なくしたかと思ってました。少なくても優先順位は低いのかなあって」
「ふえ? 連絡しないことと、それ、なんか関係あんの?」
 心底不思議そうな声。なるほど、この人に世間一般の方程式は当てはまんないわけね。わかってたけど。
 俺だって、ネットでいろいろ見てみたんだ。「連絡をくれない彼氏の心境」「手も握らない彼氏の本音」「本気か遊ばれてるかの見分け方」「別れが近いサイン」、そんな疑問を、Yahoo!知恵袋だとか発言小町だとかでちまちま探して、回答をすみからすみまで読んだ結論は、木下さんにはどれも該当しないということだ。木下さんと俺の関係を知らない人の意見で納得できるはずない。いや、木下さんのことを知っている人に答えを求めても、的を射られるかどうかアヤシイ。だって木下さんだもん。
「木下さんみたいなエリートサラリーマンが、俺みたいな男でガキで落ちこぼれと一緒にいていいんですか」
「えー。俺が気にすると思う? そんなこと。俺とお前はもう上司部下じゃねーし」
「アンタが気にしないから、俺が代わりに気にしてるんでしょうよ! 後ろ指さされてひそひそされていいんですか?」
 ふむ、とひとつうなずいて、木下さんは立ち上がり、たんすの引出しをごそごそしてからまた俺の横にちょんと腰を下ろした。ほれ、と無造作に差し出されたものを何気なく見て、俺は目を剥いた。それは……預金通帳。残高の桁が、見たことないほど多い。文字どおり桁はずれだ。
 木下さんの給料がいくらなのか把握してないが、贅沢しているところを見たことない。私服はたいがい、茹ですぎた菜っぱみたいにくたくただし、連れてってくれる店はファミレスだった。だからって、三十そこそこでこんなに貯まるもの? 株でもやってんの?
「ふっふっふ。びっくりした? 口座さあ、ネットバンキングでもいーんだけどさ、そーすると通帳ないわけよ。一回やってみたかったんだよね、通帳見せて『黙っていたけど実はこんなに貯金が』ってやつ。本懐は遂げたから、ネットに替えよっと」
「俺が見ておしまいですか」
「うん。てか、お前に見せるためだよ?」

20150920
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