ふるふる図書館


後日談  アゲイン・アンド・アゲイン again and again 1



 春の訪れを感じさせるいい天気だった。固かった木の芽は膨らんできていた。青い空はミルク色にかすんで穏やかで柔らかくて、ちぎって口に入れたらほわっととろけそうだ。俺は今夜の仕込みをするため、バイト先の居酒屋に入った。
 学校を卒業してから就いたホテルの厨房の仕事は、想像以上にきびしかった。俺ってやっぱり出来が悪い劣等生なんだなと思い知る。知ってはいたけど、書店でのアルバイトはそんなふうに自己嫌悪に陥ることはあまりなかった。きっと裏で木下さんたちがフォローしてくれてたんだろうな、と気づいてますます申し訳ない気分になった。
 新社会人の相談やグチを聞いてくれる人がいれば少しは楽になれたのかもしれない。だけど、遠い異国の地にいる木下さんに話すのは抵抗があった。慣れない海外暮らしを強いられてる人に甘えるわけにはいかない(いや、木下さんのことだから、すんなり溶けこんでやすやすとエンジョイできてたかもだけど)。自分の心地よさのために木下さんを利用したくて一歩進んだ関係になったわけじゃないんだ。
 木下さんの専門外のことをあれこれ話したって、ただ疲れさせ気をつかわせるだけだ。もっと立派になってから。せめて一人前になってから話そう。なんて考えていたら立派にも一人前にも程遠いまま、疎遠になっていた。
 木下さんが任期を終えて帰国したあと同じアパートに戻り、俺もいたあの店舗でまた働いていることは藤本さんからうっすら聞いていたが、今さらどんなふうに連絡すればいいのかわからない。木下さんが好きだったアニメのコラボ商品のお菓子が発売されたとか、一緒にDVDで見た映画の続編が出たとか、ささやかな情報を伝えたくても、そんなコネタメールを送りつけたところで嬉しく受け取ってもらえないだろう。木下さんの俺に対する気持ちも冷めただろう。あの夜ベッドで、俺のふだんとちがう姿を見て、はしたなくてキモくて幻滅したのかもしれないし、俺が木下さんを満足させることができなくて、見限られたのかもしれないし。
 そのくせ、木下さんのアパートの近くの飲み屋でバイトしているんだから、我ながら不可解だ。七瀬さんのお店で働くことも考えないではなかった。それは厚かましい気も図々しい気も恥ずかしい気もしたけれど、七瀬さんはこころよく迎えてくれることはわかっていた。なのに、『ハーツイーズ』よりもこっちを選んだ。
 無愛想なマスターがやってる、ちょっとうらさびれた雰囲気の個人経営の居酒屋。おそらく木下さんは来ないだろうし、この界隈で姿を見かけたこともない。ここで働くことに決めた動機も、日常に流されて忘れかけてしまった。七瀬さんの厚意で木下さんに会いに行ったのを除けば、会わなくなって二年半くらいだもんな、これっきりこれっきりもう、これっきりですか(ここは横須賀ではない)。
 ぼんやり回想に浸っていたら、古びた店の床が、ゆらゆらした。あ、地震だ。なんてのんきに構えていたら、たちまち揺れが大きくなっていく。がたがた、ゆさゆさ、みしみしと壁が激しくきしんだ。うわ、なんだこれ。マジかよ。うそだろ。立ってらんない。がんばって棚を押さえていたが、危ないと判断したマスターの指示で外に出る。
 生まれて初めて地震に恐怖した。聞いたことのない独特な音がのべつまくなしに鳴り響く(後からわかったが携帯電話のエリアメールだった)。店の中のものも崩れてがらがら大音声を立てる。電柱も電線もシュールなくらいぐにゃぐにゃ揺れて、道路の向こうで看板が落ちて、耳がつんざかれそうで、この世の終わりかと思った。ほんのつかの間収まったものの、またもやゆーらゆーらと酔いそうなくらい長々と揺れ始める。地震なのか自分がくらくらしているのか判別つかない。
 ああ俺、死ぬのかな。木下さん、大丈夫かな。仕事なのかな。本とか棚の下敷きになったりしてないよね。どうか無事でいて。無事でいて。

 いっぱいいっぱいなときはなぜか木下さんのことしか頭に浮かばなかったのだけど、揺れがなくなり、落ち着いてくると家族のことばかり気にかかった。電話をかけても一向につながらない。ネットを確認しようとも、木下さんと買ったガラケーは古すぎて見られない。つけたテレビが流す映像はCGで作った悪夢のようで、現実味が沸いてこないのに胸にどす黒い不安ばかりが膨らんでいく。
 それでも店を開けていたので、三々五々お客さんがやって来る。ビールを飲み、つまみを食べつつテレビの画面に見入っている。知らぬどうしで連帯感なり結束感なりが生まれていた。帰れなくなった人や、ひとりになるのに危機感をおぼえた人たちが集い、いつもの金曜日よりも賑わっている。
 また、がらりと戸が開く音がした。「いらっしゃいませ」と振り返り、俺はギョッと硬直した。
「あれれ? さっくらっだじゃん」
「き、のした、さん……。久しぶりです」
 今日の午後は非現実の連続で、こんな瞬間もその一貫なのにちがいない。一切合財が麻痺していたおかげで、あまりうろたえずに済んだ。
「ほええ。どうせうちに食うもんないからってここに初めて入ったけど、ものすごいそばにいたんだなあお前」
 木下さんも冷静だ。マイペースっぷりは地震だろうが突発の再会だろうが揺らがないのだろうか。まるで昨日ぶりかのような態度でへらへらしている。
 いったいなにから話したらいいんだろう。全然変わってませんね、帰国していたんですね、ロンドン暮らしはどうでしたか、元気でしたか、またあの店舗で働いてるんですか、今日の地震は無事でしたか、商品が被害にあったでしょ、什器は倒れませんでしたか、お客さんを誘導しないといけないんですよね大変だったでしょ、ほかの人も大丈夫でしたか、エトセトラエトセトラは俺の声帯を通過していかないで、のどの奥を渦巻いているだけだ。でも、とりあえず。
「なににしますか。生中?」
「うん。それと、お前が作ってくれるものなら、なんでもいいから食いたい」
 さらりとそう注文して、屈託なくにこりと笑った。

20150920
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