ふるふる図書館


第25話  ドラスティック・チェンジ drastic change 3



 我に返って、すんでのところで止まる。呼気が口もとにかかって、こそばゆい。接触してもいないのに、ぴりぴりと電流のようなものを感じて、背筋がぞくぞくとした。
 きれいな色合いの瞳が、すぐそばでゆらゆらたゆたっている。返事をうながすように俺が首をかしげると、睫毛が伏せられてそのきらきらを隠した。
 そっと、ゆっくり、慎重に。触れるか触れないかの距離で、唇を唇でなぞる。ふわふわの羽毛でくすぐられてるみたいに、胸の奥も頭の奥もふわふわとして、息が上がる。小刻みにそよいだ木下さんの睫毛を、透きとおった水滴が小さくぷくりと押し上げた。
 この人の唇の形も、味も、柔らかさも、触感も、温度も知っていたはずなのに、まるきりの初めてみたいに感じる。名前を呼び合って、互いの想いを伝え合う四文字を口にしたせいなのか。まるで魔法の呪文か、媚薬みたいだ。全身が熱っぽくて、鼓動が激しい。まだほんのかすかなふれあいだけ、なのに。こんなに鋭敏な感覚を持つ器官なのか。この先、もしも本格的な手順に突入してしまったらいったいどうなるんだ正気を保てるのかと、怖さすらおぼえる。
 ぷるぷるする両手は、俺と木下さんとどちらが震えているのかわからない。しっかりとつなぎ直して、きゅうと握った。上唇を端から端までそうっと唇で挟んで、下唇もそうして、弾力を確かめる。
 木下さんが、うめくような声を、こらえきれないみたいに、あえかに漏らした。俺は少し顔を離した。
「苦しかったですか。すみません」
 木下さんは俺の二十センチほど先で、俺を見ずに下を向いた。わずかに眉をひそめている。ご立腹なんだろうか、と考えていると、やっぱり口調が怒っていた。
「馬鹿。なんでそんな……やらしいこと、すんの」
「や、やらしい?」
 大事に大切に慈しんだつもりだったのに、そんな非難をぶつけてくるとはご無体な。
「いじわるばっかしやがって」
「えっ? してませんよ!」
「した」
「してない」
「したもん」
 埒があかねえ。
「好きです」
 だから、意を決して変化球を投げ返した。木下さんが口をとがらす。
「伝家の宝刀じゃあるまいし、それさえ言えば解決すると思うなよ? さっき聞いたし」
「リピートしたらだめなんですか」
「こんなときに……浮かれてるときに言うなそんなの。盛り上がったはずみで口にしたって、ぜんぜん意味ないから」
「ええ?」
 マスオさんみたいに裏返った声が出てしまった。
 酒で酔っ払ったときとか(まあ俺は飲まないけど)、いちゃいちゃしてるときとか、らぶらぶしているときなんかでもアウトってことかよ。そんなときにしか言えないだろこの人相手に。流されて溺れてるときにしか表に出せない本音だってあるだろ。せっかく口にするのに慣れてきそうなところなんだから、そうやって封じないでほしい。
「じゃあいつならベストタイミングなんですか」
「気持ちはどうあれ、口ではどうとでも言えるじゃん」
 俺は人をだませるほど器用じゃない。よーく知ってるくせに。
「だから、いいよ。もうわかってるから。言わなくていい。言わないで」
 なんなの。照れ屋? 新種のツンデレ? めんどくさい人? それとも……。
「俺、拒絶されてます?」
 結んでいた手がほどかれて、俺の頭を撫でる。ムツゴロウさんが動物に対して「よーしよしよし」とわしゃわしゃするような、色気のない動きだった。
「するわけないだろ、ばーか」
 あああ。非日常の木下さんがあっさりときれいさっぱり消えてしまった。引田天功のイリュージョンのよーに。とらえどころのない、つかみどころのない木下さんが帰ってきてしまった。どんな木下さんでもいいけど、もう少しファンタジーに浸っていたかったよ。

20150826
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