ふるふる図書館


第23話 ウェイト・アンティル・ダーク wait until dark 1



 アラーム音が「ピッ」と鳴り始めた瞬間に、俺はばちんと目覚まし時計をひっぱたいて止めた。朝六時。すでに明るい。
 昨夜は悶絶するほど恥ずかしいことを言わされたり聞かされたりした気がする。残念至極なことに夢でも妄想でもなかった。なんで現実世界には夢オチってないんだろ。
 いやちがうし。なぞなぞの答えを口に出しただけだし!
 あんな五文字だけで、木下さんと顔を合わせづらく思うのに。どんな表情と態度でいればわかんなくなるのに。ネクストステージに進んじゃったらどうなるんだろうか。昨日はあそこで打ち止めになって正解だったんだ。
 木下さんは目をさます気配もなく、タオルケットに包まれたまま微動だにしない。なんとなくそっちのほうを見ないようにしつつ、ためいきを押し殺しつつ、俺は部屋を出た。
 こんなときは料理で雑念を払うに限る。朝メシを作ってこよう。

 木下さんは朝食はコメなのかパンなのかシリアルなのか食べないのか。知らないけれど、コメは炊いておらずシリアルの買い置きもないので、自動的にパンに決まった。兄貴の分と俺の分と三人分。木下さんは、桜田家から出勤すればここまで早起きする必要はないはずなのに、一度自宅に帰りたいそうだ。そんな面倒なことしなくたって。着替えだって、俺の使えばいいのに。
「木下さん、起きますか? 朝ごはんの準備ができましたよ」
 かたわらに膝をついて声をかける。と、なにやらむにゃむにゃ言いながら寝返りをうった。ムカツクほど無邪気すぎる寝顔と仕草がほんと五歳児……。
 もう一度呼びかけながら肩にそっと手をかけたら、ころんと転がって俺にタックルしてきた。
「うにゃー。いい匂いする」
「ベーコンエッグですよ」
「そーじゃなくてー。コーキがいい匂いするのー」
 この匂いフェチ……。むにむにと俺にくっついてほっぺたを埋めてくる。五歳児じゃなくて猫か。朝日を浴びて茶色く見える髪もそれっぽい感じで、つい無意識に触ってしまった。
「ふあっ」
 奇声を上げて木下さんが飛び起きた。やっぱり猫か。淡い色の目がまん丸になっている。
「おはようございます」
「おあよ……。あー。抱き枕とまちがえた」
 舌っ足らずにぽりぽりと頭をかいて、ごしごしと目をこする。
「目がさめたなら、メシにしましょうか? 簡単なものしか作ってないけど」
「ふえ? お前が作ってくれたの? 食うっ!」
「あ、ふとんはそのままでいいですよ。顔洗いたかったら洗面台使ってください」
 うん、とうなずいて枕元に落ちていためがねをつかみぱたぱたと出て行く。部屋を出ると廊下に洗面台があるからわかるはずだ。
 それにしても「抱き枕」、ね。俺の名前を何度も呼んだくせに。アンタは、抱き枕に俺の名前をつけんのか。そもそも木下家にそんなもんないくせに。

 木下さんと兄貴と俺とで囲む朝食の席。
 ふたりで夜を明かしてどうだった? と兄貴が真顔で聞き、俺はバターナイフを落としかけ、木下さんが「コーキったら可愛かった」とにやにやする。
「ど、どういう意味ですかっ! むしろ可愛かったのは木下さんでしょ! うるうる涙目で俺を見て」
「ふーん。可愛いって思ってくれてたんだ?」
「いーえっ。二十七歳が可愛いとかありえないですしっ」
「なんだ、平常運転だなふたりとも」
 そうかもしれない、なにも変わってない。ブレックファースト、特になにも問題ない。と俺の脳内ラッパーが指を突き立てながら歌っているうち、木下さんは俺の家を去っていった。兄貴が優雅にコーヒーを嗜みながら言う。
「お前たちふつうすぎるな。朝食を作ってもらった恩があるから追及はしないでおくけど」
「別に、叩いてもなんも出てこねーし」
 このまま別々に出勤して、いつもどおりに顔を合わせて、いつもどおりに仕事をして、いつもどおりに別れる。いつもどおり。ふつう。日常。平常運転。そうじゃないと、俺はバイトに行けない。木下さんと顔を合わせられない。会話できない。仕事できない(って、またラッパーが脳裏で歌い出してるし)。
 たいしたこともしてないのに、なんだってこんなに平静と平常心を保つのがむずかしいんだ。世の中の人はどうしてんだ。俺がおかしいのか。木下さんがおかしいのか。

20150810
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