ふるふる図書館


第22話 トウ・トゥ・トウ toe to toe 3



 今度こそテキメンだったようで、木下さんはぱっと面を上げた。しかし俺までギョッとさせられた。人を驚かそうとしたバチか。人を呪わば穴二つ。
「な、んで泣いてんですか」
 夜目にもわかる、きらきら濡れた瞳に俺は動揺した。
「ちが、急に声かけられてびっくりしただけっ」
「まあそういうことにしてもいいですけど。明日そのなりで仕事に行くのは……」
「うぇっ、そんなにひどいか?」
 そっぽを向いた顔を戻し、すでにめがねをはずしていた目元を手で拭おうとする。
「触らないで、腫れますよ」
 後ろ手にティッシュボックスを引き寄せ、ちり紙でそっと水分を取る。部屋にあったのがたまたま鼻セレブでよかった。ついでにほっぺたもつんとつついてみた。
「きれいになりましたよ。ふふ、なんだか小さい子供みたい」
「満足か」
 木下さんはむすっと口を尖らせている。拗ねてんのか。照れ隠しか?
「なにがです」
「お前、前に言ってた。俺のこと泣かせたいって」
「はあ? 俺がですか? いつ。全然記憶にないんですけど。俺をかつごうとしてません? そりゃ、さんざんガキ扱いされて悔しくて、打倒木下さんを誓ったりしてましたけど。木下さん、若い子がいいんでしょ? だから、それ知ってからは、木下さんより上に立とうとなんかしてないですもん」
 木下さんは盛大なためいきをついた。
「俺を仕留めにきてないか。そんな健気な発言されて心臓がもたんわ」
「前はよく俺のほっぺたぷにぷにしてたでしょ。だけどもう、二十歳で薹が立っちゃってるし。他の人に『こんな若い子つかまえた』って自慢できなくなるし」
 俺のおでこを容赦ないでこぴんが襲った。態度がいつもの調子に戻ってる。
「あほか。自慢したくて人間関係を構築してんじゃねーよ。若いからとか関係ねーんだよ。お前がお前だからなんだよ」
「オバケンさんに、意趣返しとかしたくないんです?」
「腐れ縁の昔なじみのくだらんけんかにお前を利用するわけねーだろ。それに若けりゃそれでいいんだったら、とっくに……。すでに二年ちょい待ってるし。まだまだ余裕で待てるしっ」
「すみません」
 って、え? 「まだ待つ」てことは、俺たちの関係はまだ一歩も進展してないってこと? いまだスタートライン?
 ついさっきの、瞳を潤ませていた木下さんだったら、ひょっとしたら甘い雰囲気に持ちこめたかもしれない。詳細は教えてくれてないが、(おそらく)俺のことで涙ぐんでいる光景はドキッとしたし充分可愛かったような錯覚もした。
 しかし。木下さんの佇まいが日常レベルにリセットされると、そういう雰囲気がみごとに雲散霧消、チリアクタとなり消えてしまう。
「眠い。寝る」
 木下さんは、もそもそとタオルケットに体を滑りこませた。俺に背を向け、枕に頭をつける。
「俺は待つのきらいじゃないからさ。罪悪感やら焦燥感やらで無理して変な気起こすなよ。体の感覚に惑わされて、感情を誤認すんなよ。早まるなよ」
 ボーイズラブの鉄板、雑誌の表紙でよく躍ってる見出し、「肉体関係から始まるラブ(はぁと)」みたいなことを否定するようなことを言っているらしい。俺はベッドに逆戻りし、この二年ほどの記憶を脳内で掘り返した。
 体の接触の経験がほとんどないうちに、木下さんの過剰なスキンシップによってそれらを味わうはめになった。そのこころよさにひきずられてんのか? 木下さんに対する気持ちは単にそこから派生したものなのか? どころか、ただの勘ちがいだとでも?
 なんでそんな慎重? 闊達そうに見えて不自由な人だな!
 すやすやと寝息が聞こえてくるこんもりとしたタオルケットを眺めながら、俺は左手の薬指を撫でた。水風船の輪ゴムの跡もすでに消えかけていた。

20150802
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