ふるふる図書館


第22話 トウ・トゥ・トウ toe to toe 1



 木下さんは、ぼうっと俺を見た。この人にしては珍しく、素の表情だ。
「……マジで?」
「な、なんですか今さらそんなびっくりしなくても」
「だって、言ってくれると思わなかった」
「またまたー。俺がさっき『わからない』って言ったとき、しょぼんとしてましたよね?」
「ほんとにさあ……。落として上げるとか、お前策士だわ。いたいけでピュアピュアなオジサンの心を弄ぶなんて」
「お互いさまですって。俺はオジサンじゃないですけど。それに俺ばっかりに恥ずかしいこと口に出させて、ひどいです」
 すると、木下さんがにやりと笑った。
「おや、おねだりかな?」
 ちがう! なんでそんなポジティブな解釈ができるかな!
 木下さんはそうっと、俺の耳に口を近づけた。
「公葵、俺も……」
 囁かれるあの五文字。言うほうが恥ずかしいと思ってたけど、言われるほうもだった……。リアクションがなにもできず、固まってしまう。
「じゃあ時間も遅くなったし、そろそろ寝るか」
 木下さんはベッドから降り、さっさとふとんにもぐりこんでしまった。タオルケットがちまっと盛り上がる。
 は? え?
 藤本さん提供の本では、お互いに相手に対する気持ちを確かめ合ったら、ただちに、実に素早く、めくるめく大人の世界が繰り広げられていた(確認作業をする前にその段階にいってしまった話もあったが、それは脇においておく)。いくら恋愛小説を読んだことがほかにないからといって、ボーイズラブを手本にするには知識がかたよりすぎなのかもだが、でも「なるほど我々の心情は互いに理解した、ではおやすみなさい」ってずいぶんあっさりしすぎてないか? 世の中そんなもんなのか?
 たしかに、意思の疎通を果たしたところで、今後はこうするとかなにがしかの変化をもたらすとかは告知されてなかった。今までどおり仕事ができるようにするという一点のみで。俺は木下さんのことを、木下さんは俺のことをこう思っています、だからどうしたって話だよ。
 そ、か……。なにも変わらないんだ、俺たち。明日からも上司と部下で。だよな、特別な関係になっちゃったら働きづらくなるし、けんかしただの別れるだのになったら困るし。これでいいんだ。
 俺もベッドに入り、明かりを消した。オレンジ色の常夜灯にする。
 でも、せっかくこうして木下さんがうちに来て泊まってくれてんだから、なにか話したい。
「あの、どうして、エアメール、隠してたんですか?」
「お前が彼女できたって話聞いたから。アレに気づいたら困らせると思った」
「あはは。俺の馬鹿っぷりを過小評価しないでくださいよ。気づきませんよそんなん。俺に彼女作れって薦めたからこんなタイミングになったんですよ?」
 女の子と付き合えと俺に言ったすぐあとにアレを仕込んだということになる。その言動について今ひとつ理解が及ばない。
「公葵」
 木下さんが、真面目な声音を出した。そういえば、さっきから木下さん、俺のこと「公葵」って呼んでる。苗字でもなく、軽くてしまりのない「コーキ」でもなくて。低くて柔らかくて心地よく響いて、鼓膜を羽毛でやさしくくすぐるような。
 そっと見やると、木下さんはふとんに身を起こして俺のほうをまっすぐ向いていた。
「俺は、お前に昔いろんなちょっかいをかけてた。でも、お前はそういうことされたくなかったんだろ。だからもうあんなことはしないで、お前が俺を信頼してくれるまで待つことにしてた。『なかったことにしてほしい』なんて虫がよすぎるけど。ごめん。もう、しない」
 ホテルで言われた「なかったことにして」は、そういう意味だったのか。ったく、わかりづれーよ。俺に興味なくしたのかと思っちゃったじゃないかよ。だまされた。
 あの夜、俺はド派手に木下さんのことを拒絶してたんじゃなかったか。近寄ったら悲鳴上げたり、はずみで上に乗っかられただけでぽすぽす枕で打ち据えたり。 ひょっとしてものすごく気にしてたんじゃないのか。
 二十歳そこそこの若い子のために、高級ディナーとホテルを予約して。ふたりきりで過ごすはずの特別な夜だったのに、接触すらも拒否られて。それでもいつもどおり明るくハイテンションにふるまって。悲哀あふれすぎだろこのアラサー。

20150802
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