ふるふる図書館


第20話 トランシェント・トランス transient trance 3



「うん、さわっても落ちないな」
 いやに楽しそうに俺の舌をさするけど、俺は舌の動きを封じられて声が出せない。氷の冷たさで舌が麻痺しているのか生々しさはないけど、なんか、変な感触……。
 じわじわと舌の感覚が戻ってきて、指紋のざらつきだとか節のしわだとか皮膚の熱だとか味だとか、そんなものがなだれこむようになってきてますます脳が混乱してくる。人の指なんか味わったことない。歯医者以外に指を口腔につっこまれたこともない。なんだこれ。
 少しでも動かすと、木下さんの指を俺が積極的に舐めるみたいになって不本意なんだけど……無意識なのか本能的なものなのか、指の存在を感じるほど舌も勝手に動いて指に絡みつこうとしてしまう。
 ひとつ発見をした。舌を長く出した状態でいると、まともな思考ができないってことだ。ひどくぽーっとして、木下さんの動きを素直に受け入れて、のみならず合わせようとさえしている自分がいる。
 次第にあごが上がってきて、ますます頭がぼんやりとしてきた。口を開けているのがちょっときつくなってきて、唇が閉じてくる。歯を立てたら申し訳ないので軽く当てるだけにとどめようとすると、否応なしに、指をしゃぶるような格好になった。唇もふわっと当たるだけにとどめようとすると、くすぐったいような感覚が来て、むずむずした。
 非日常に叩きこまれた困惑で、眉根が軽く寄る。なにか言おうとしても、鼻から子犬の鳴き声のような音が漏れてしまう。木下さんはいつものへらへらした笑顔を崩さない。
「手はさっきおしぼりで拭いたからきれいだよ」
 いやそこじゃねえ。いやいやそこも大事だけど。
 ようやく指が離れた。この件についてなにかコメントを発表したほうがいいんだろうか。べろって、さわられたら怒るべき部位なのか? 考えてもわからないので、俺は話題を軌道修正することにした。
「いいです、こっちで。だって買ってくれたの親じゃないですから。木下さんですから」
「俺から買ってもらったから食いたい?」
「ううん? まあそういうことですかね。祭りもかき氷もこの世からなくならないんですから。次のときに、ちゃんと選べばいいだけでしょ」
「それって、俺と?」
「この文脈で、他に誰がいますか。木下さんと、でしょ!」
 スプーンを持つ俺の右手を、木下さんが指した。
「それ、じゃまじゃね?」
 この脈絡のない唐突さは今に始まったことじゃない。俺の右薬指からぶらさがってゆらゆらしていた水風船を器用に抜き取る。
「ほら、反対の手出して」
 かき氷のカップをとりあえずベンチに置いて、左手を出す。と、上にしていた手のひらを下にされた。そのまま、ゴムの輪っかをするすると薬指にすべらせる。
 左手の薬指、だと……?(ざわ……)
 伏せられた顔は神妙そうに見えて、俺はかすかに息をつめた。鼓動がわずかに速まる。こんなの、なんの意味もないはずなのに。あるとしたって、悪ふざけの冗談に決まってるのに。
 低い声音で木下さんがつぶやく。
「最初からこっちにはめればよかった」
「そ、ですね、こっちのほうが食べやすいです」
「……だよな」
 くすりと笑って顔を上げた木下さんは、見慣れたのほほんとした表情だった。
「あ、そろそろ始まるみたいですよ花火」
 俺はほっとして、会場のスピーカーから流れてくる司会進行の声に耳をすませた。花火を鑑賞している間なら、よけいなことを考えなくてすむ。この微妙なわだかまりを持て余さずにすむ。
 ひゅううううという高い音とともに炎が細長く空に昇っていき、ぱあっとはじけて空が色とりどりに明るく輝く。少し遅れて、大きな破裂音が鈍くとどろいた。
「うっわー! すっげえ迫力! めっちゃきれい」
 すぐ横で、子どもっぽさ五割増し(当社比)でアラサーがはしゃぐ。飛び散った、赤や緑やオレンジやピンクや銀の光が、屈託も邪気もなさすぎる笑顔を照らしてまばゆくきらきら反射した。知らず知らずに見入ってしまう。
 花火が破裂するときの音は、胸を撃ち抜かれる音と似てるかも、と俺はふと思った。

20150622
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