第12話 トクシック・ハグ toxic hug 3
俺は木下さんのほうを見ずに、ほとんどつぶやきに近い小声を吐き出した。
「もし……」
「ん?」
木下さんは聞き漏らさず、顔をさらに寄せてきた。地獄耳もはなはだしい。しかたなく先を続けた。
「俺が彼女と別れたら、木下さんはがっかりしますか」
口にしたら思いがけず胸がきゅうっと締めつけられて、俺は唇を噛んだ。自分で傷口にすりこんでどーする。ブット・ジョロキア(辛さ世界一の唐辛子)並みの刺激物を。
木下さんの力が緩んだ。
「なんかあったのか?」
「た、たとえばの話です、もしも。仮に。if。ただ聞いてみただけです」
問われてあわてて取りつくろった。だって彼女と「別れた」ってのは事実と相違するわけで。
「だって木下さんが付き合うように言ってくれたから、その、えっと、期待を裏切ったら甲斐性ないっつーか申し訳ないっつーか」
うう、木下さんにダメージを与えるどころじゃねーじゃんか。俺ばかりライフが激減してね? 自傷の傾向があったのかよ俺は。ここは一時退却だ。
「じゃっ、お先に」
そそくさと部屋を出ようとしたら
「まあ待てよ」
腕をつかまれ、くいっとひっぱられる。勢いがついて真正面から木下さんにぶつかり、「ぐげえ」と踏んづけられた蛙みたいな声を上げてしまった。なんと風情も情緒もない。捕捉ってか抱擁される格好になってしまったのに。
げ。ほ、抱擁?!
現状を把握したとたん、俺の心臓がやかましく32ビートを打ち始めた。俺と木下さんは身長にそう差がないから、胸の高さも同じくらいだ。鼓動の速さがばれそうで、俺は全身を硬くして及び腰になった。ひえー。なんでこんなことに! 木下さんにイケズをしようと一瞬でもたくらんだバチなのか?
「俺、聞きすぎた?」
木下さんの唇が俺の耳もとに位置している。そこからささやかれる声が、雨粒みたいに鼓膜にぽつりと落ちた。
「お前と彼女のこと、詮索しすぎた? じゃまだったの?」
俺は無言で首を振った。いつだって木下さんの取り調べを鬱陶しく感じていたはずなのに、ここでうっかり否定してしまった。
やさしくて低くて甘い、酔いそうな声が、痛い。しゃべれないほどの痛みが、俺の精神の装甲をえぐって溶かそうとする。虫歯と同じだ。蝕まれるからムシバっていうんだぞ。
たしかに、里美さんの存在を知って以来、木下さんは事あるごとに里美さんとうまくやっているかと質してきた。今日はこれからデートか? 昨日は? なにした? どこへ行った? なに食べた? どうだった? メールは? 電話は?
反芻しているうちに、里美さんと過ごした時間の記憶が俺の心になだれこんできた。う、またもや差しこみが……。持病のシャクってやつか?
「俺が彼女と別れろって言ったら、お前、別れんの? らぶらぶなんだから、ちがうだろ。ちがうんだから、そんなこと言う必要ないだろ? な。俺のこと、そこまで気にしなくていんだから。ちゃんと自分の選択をすりゃいんだから」
ぽんぽんと俺の背中を軽くたたく。赤ちゃんをあやすみたいに。そしたら力がふわんと抜けて、無意識のうちにくたんと木下さんにもたれてしまった。瞬間、木下さんの体温と香りが密着する。
でも、あごが木下さんの肩に当たったはずみで俺は我に返った。泡を食ってがばりと離れたら、顔をまともにのぞきこまれた。
「なんでそんな泣きそうなの」
「わかりません」
誰が原因だ。里美さん? それとも木下さん?
木下さんはいつもの調子できししと笑った。
「サトミちゃんとうまくいってて、幸せすぎて泣けちゃう? いーねいーね。めでたいねー」
「ひやかしですかそれは。離れてくださいよってば」
再びぺったりくっついて俺の頭を撫でまわしてくるのを、がんばって振り払う。暑苦しいったらない。
なのになんで、さっきはほんの一瞬でも、体を委ねちゃったんだろ。きっとヒットポイントが下がって精神が弱ってるせいで負けたんだ。不可抗力だ。弾幕の薄い左舷だ、なにやってんの。
ああ毒だ。猛毒だ。体に悪いよあんなハグ。ご両親のこと言えないだろ木下さん。この一家はほんとにフグだ。フグのハグだなんて下手な洒落ははやめなしゃれ、と自分にツッコミたい。