ふるふる図書館


第9話 スリップ・フロム・メモリ slip from my memory 2



「あの」
「ん?」
 にこっと木下さんが笑った。その表情に背中を押されて、俺はねだった。
「俺に、手紙ください。一通だけでいいから。あっ、すぐにじゃなくていいんです。手紙、いえ、はがき。そう、絵はがきで。そしたら、『ああ木下さん、こんなところにいるんだな』ってわかるでしょ」
「メールじゃなくて?」
「木下さんの直筆がいいんです」
 ちょっとまるっこくて小学生みたいにきっちりとした文字。好んでよく使う、少し細めのペン。インクの濃淡。そういったものに、木下さんの気配が感じられると思うから。
「駄目、ですか?」
「わかった。書くよ」
「ありがとう、ございます。わがまま言って、すいません。だっ、大事にします、から。ずっと」
 なぜかとちる。どもる。口ごもる。言いたいことがたくさんあったはずなのに、もうほかになにも言えなくなった。指先が震えないよう苦心しながら住所をメモして渡した。木下さんがズボンのポケットにしまう。こんなに薄っぺらいくせに、この紙が俺の代わりに木下さんと異国の地に行くんだなあ。俺にできないことができるんだ。
「じゃあ。そろそろ、行くよ」
 その声にはっとした。いつもどおりの、軽やかすぎる飄々とした口調だ。肺の奥がちくりとしたけど、でもこの人らしい。しんみりしたしめっぽい別れは、似合わない。
「気をつけて帰れよ」
「木下さんこそ。気をつけて」
 どうにか笑顔を作った。
「サンキュ」
 応えて、俺の瞳を間近でじっと見つめた。吸いこまれそうな、淡い独特の色をした虹彩に、うっかり息をするのを忘れる。俺を亡き者にする気か。
「今日は嬉しかった。公葵」
 耳にこころよすぎる、低いささやき。やっぱり、俺を殺すつもりだ。
 だけどそれは一瞬でかき消えて、
「バハハーイ」
 前世紀にケロヨンが流行らせたあいさつをあっけらかんと朗らかに残して、木下さんは遥か遠いロンドンへと旅立ったのだった。

「これをちゃんと読んでないわけ、お、ま、え、は!」
「お、ま、え、は」に合わせて、まるめたコクヨのキャンパスノートが俺の頭頂部にぱこぽことヒットした。
 言い訳なんぞ思い浮かばず俺はひたすら小さく肩をすぼめて恐縮していた。
「すみません」
 凶器の表紙にくっきりとサインペンで記されている文字は「朝礼・申し送りノート」。朝礼での連絡事項が、朝礼に出てない者にも伝わるよう、書いておくためのノートだ。
 ページをめくれば、たしかにあった。木下さんのロンドン行きについて。三日間の出張と。
 それに違わず、木下さんはけろりとあっさり、俺宛のエアメールよりも早く日本に到着して。今このスタッフルームがふたりきりの説教部屋と化したのだった。
 椅子に座り、小さなテーブルごしに俺と向かい合う木下さん。
 ああー。穴がないなら掘ってでも入りたい。地面にしばらく埋まりたい。
「だいたいさ、おかしいと思わなかったのか。仮に転勤だったとして、俺は誰にも送別会すらしてもらえないのか? そんなにさみしい厄介者なのか? きらわれ者なのか? ロンリー僕は孤独なのかい? ロンリー僕はひとりかい?」
「い、いやまさか。そんなこと思ってませんよ全然っ」
 びっくりして否定した。最後の方、シャ乱Qの「いいわけ」だとしたら歌詞が微妙にまちがっているが、今は訂正している場合じゃない。
「ただ……俺に内緒だったのかなって。俺に隠れて送別会したんじゃないかって」
「ああん?」
 木下さんはちょっとだけぽかんとしてから、ためいきを吐き出した。
「いいかげん、そーゆー考えやめろよな。誰がお前のことハブるんだよ」
 どうしよう、誰かの不利になること言ったかな俺。そんなつもりなかったのに。
「あの。ちがいます。みんな俺によくしてくれます」
「じゃあなんでそんなけったいなこと考えんの」
「俺……誰かに誘われないのふつうだし、声をかけられないの当たり前だし」
「現在形かよ? 過去のお前がたとえそうだったとしても、それいつまでひきずってんだよ。お前が自分をどう思おうと、ほかのやつらはお前のことを仲間だって認識してんだからさあ。そいつらの気持ち、無駄にすんなよな」
「はい」
 従順にこくりとうなずいた。

20090420
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