ふるふる図書館


第8話 グリーン・スリーブス green sleeves 3



「どうかしたのか? 具合悪い?」
 バイトの先輩、山内さんが声をかけてきた。里美さんが立ち去ったあと、俺は心ここにあらずといったていで、ふらふらフロアを歩いていたらしい。
「俺……」
 ぼうっと虚空に視線をとどめたまま俺の口が勝手に動く。
「彼女できました。たった今」
「はあ?」
 ひっくり返った山内さんの声を聞きつけて、本橋さんまで何事かとやってきた。俺のことはいーからちゃんと仕事してくださいよ。って人のこと言えないか。俺の顔の前で本橋さんが手を振った。
「大丈夫? 気はたしか? この指何本?」
「さんぽん……」
「意識はあるか。蜃気楼や白昼夢を見たわけでもなく虚言癖もないとして。百歩譲ってそれが事実だとしよう。でもなんでそんなうつろなんだよ。魂の抜け殻みたいなんだよ。死んだ魚みたいな目をしてんだよ。全然嬉しそうじゃねーよ?」
「え? 嬉しいですよ。すごーく。あは、あはは、はは」
「ちょっ、かなりいっちゃってんぞ。アキラ、気つけ薬持ってるか? 救心とか」
「残念ながらないなあ。誰か呼んできたほうがいんじゃね? 木下さん……は、いないのか。谷村さんがいいか」
「木下さん? あっ木下さんに報告しなきゃ」
 彼女ができましたって。あと涼平にも。
「だから木下さんは今日からいねえって」
「あ、明日だっけ? 木下さんがロンドンに行くの」
 ロンドンロンドンロンドン。愉快なロンドン楽しいロンドン、ロンドンロンドン。
 楽しさ抜群ロンドングループのCMソングをたっぷり脳内で堪能した後。
「へ? ろんどん?」
 アンドンでもテンドンでもハンドンでもなく、おさんどんでもつっけんどんでもなく、ロンドン?
「あれ、桜田君、知らなかったのか? 木下さんはロンドン支店に行くことになったんだぞ」
 俺の意識は頭上のお花畑から現実へと落下傘に乗って急下降した。
 え。ええっ。なにそれ聞いてないよー! ダチョウ倶楽部だって床に帽子叩きつけるわそんなの!
「あ。正気になった」
「はい。仕事に、戻ります」

 この店でバイトして三年目。すごく楽しかった。たくさんの人と会えて、たくさんの知識が増えて、たくさんのことができるようになって。
 高校生のとき、フロアの一角を改装しカフェが併設された。木下さんの計らいで、俺は書店と並行してそこも担当することになった。バイト生活がもっと充実した。
 だからあるとき、木下さんに言ったんだ。
「俺この仕事続けたいです。就職できますか? 駄目ですか?」
「だーめっ」
 軽やかに木下さんは却下した。
「やっぱりそうか。学歴とか必要ですよね」
「そんなことよかさ。うちは異動も転勤もあるんだぞ。いつどこに配置換えになるかわからんし。国内じゃなくて、海外になるかもしれんし。独身男子は特に確率高いからなあ」
「俺はまさか、外国には行かされないでしょ。高卒の分際で」
「俺が飛ばされることだってあるだろ。栄転とかさ。いちおう出世コースに乗ってるらしいんだぞこれでも。お前までうちの社員になったら、別れ別れになって身動き取れないじゃんか」
 それを言ったら、俺が別のところで働いたって、同じことだ。俺は至極もっともな疑問を抱いた。だけど「やだもんそんなの」と駄々っ子みたいにぷくーっとむくれる木下さんになぜか、それが口に出せなかった。

 俺はここでやることがあるんだから。ロンドンくんだりにまで行けっこない。だからと言って、俺に黙って行くことないじゃんかよ!
 仕事が終わってすぐ、木下さんに電話をした。だけど木下さんの携帯は電源が切れているらしく、つながらなかった。固定電話にもかけたが出ない。
 アパートにいない?
 そうだ、藤本さんならわかるかも。藤本さんのデータを、ボタンをかちかち押して呼び出す。指が震えて押しまちがえて時間がかかる。ああそうだ、仕事中かもしれない。ならいっそ木下さんの実家に電話しよう。出るのは誰だろう、藤本さんじゃなくて、お父さんかも。こんな夜更けに電話をしたら怒鳴られるかも。だけど、だけど。話さなきゃ。話さなきゃ。
 二十歳の記念といって、豪華なホテルを予約してくれた木下さん。
 どこか言動に一貫性を欠いていた木下さん。
 派手なデコメを送ってくれた木下さん。
 俺のことを無限大に可愛いって言ってくれた木下さん。
 可愛いから幸せになれるって請け合ってくれた木下さん。
 あれもこれも全部、最後だから? 最後だから、もう俺のことからかわないと? 最後だから、彼女作れと?
 そんなの、そんなの、そんなの、聞いてないっ。聞いてないよ!
 コール音が途切れた。
「もしもし」
「き、木下さんの、お宅ですか。俺、桜田といいます……」
「桜田君? どうしたの。こんな時間に」
「藤本さん。き、きの、木下さんは、ど、こ……」
 のどがつまる。鼓動が暴れる。走ってもいないのに。苦しい。不整脈だ。手足がしびれて冷たい。
「落ち着いて。ゆっくり深呼吸して、いい? はい大きく吸って……吐いて」
 現役ナースは、沈着でない俺に対して冷静にやるべきことをくれた。まともに息ができるようになってから、藤本さんは教えてくれた。
「木下君はね、もう発ってるよ。今ごろは、空港近くのホテルかなあ」
「ど、この……」
「詳しくはわからない。それにもう遅いよ? 明日の便だから、見送りに行く? 何時にどこに乗るのかメールで送るから」
 あたしは仕事で行けないけど、と藤本さんは付け加えた。俺ひとりで行くのか。
 空港なんて右も左もわかんない。小学生のとき遠足で羽田に行ったことがあるくらいだ。成田なんて行ったことない。飛行機なんて国内線だって乗ったことない。
 でも俺はもう大人なんだから。大丈夫、行ける。行かなくちゃ。一目だけでも、会わなくちゃ。

20090129
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