第26話 ハッピーエンドはまだこない。1
木下さんは、目をひたすら丸くして、まじまじと俺を見た。びっくりしたみたいだ。
いや、俺の前でおどろいてみせることはこれまで何度もあった。でも、本当に心の底から驚愕してんのかと疑わしいほど、いつでもどこかしら余裕があった。なのに、今、木下さんの表情はちっちゃい子供みたいに無心であどけなかった。
してやったりと勝ち誇ってほくそえんだらよかったのに、不覚にも……可愛いと思った。思ってしまった。
もちろん、木下さんが可憐でいたいけなキャラであろうはずがない。てことは、この「可愛い」ってのは、その、俺が悶絶するよーな意味合いなんだろうか。ううん、なんだかどっちでも変わりないよーな気がしてきた。えい、この問題は一時棚上げだ。
それよりも木下さんだ。
もしかして、俺のこと犬になったのか心配になったのかな。噛んだところ痛かったのかな。手加減したはずだったけど。いわゆる甘噛みのつもりだったけど、ちょっと強かったのかも。
もう、犬ついででいーや。俺は、噛みついたところをそっと舌で舐めた。
木下さんは、やっぱりぱちぱちとまばたきを繰り返すばかりだ。
「すいません、痛かった、ですか」
「桜田」
木下さんが俺を呼んだ。
「はい」
「俺、今お前になにかしたか?」
「え」
「気にさわるようなことしてないだろ。なのにどーしてお前が俺にそんなことするんだよ」
それは。……なにもされなかったから、じゃねーか。だって、だって、調子狂ったんだもんっ。それだけだもんっ。
「俺、お前がわからん」
はあ?
「単純だし裏表がないからわかりやすいって思ってた。でも全然わからん。なんなんだ」
なにをしゃあしゃあとすっとぼけたことぬかしてんだこのおにーさんはっ。
「よく言う。それはこっちの台詞ですっ。俺、木下さんのことさっぱりわかんねー。俺のことおちょくってそんっなに楽しいですかっ。あ。楽しいですよね、そーですよね……」
迂闊にも納得。うっかり自己完結しちまった。
木下さんはぷっと吹き出した。ウケたみたいだ。また俺の肩に顔を埋めてくっくっと笑い続けた。
「コーキ」
笑いがおさまるといつもの口調に戻って、でも体勢はそのままで、今度は俺の下の名前を口にした。
「はい」
「なんでいつもアップルティー飲んでんの?」
「え? そりゃ、好きだから、ですよ?」
「ほんと? マジで昔からずっと好きなの?」
俺は答えにつまって、視線をうろうろさまよわせた。
「じゃさ、今朝の書置き。なんであのレシート使った?」
「え? 財布に入ってたから、ですよ」
「なんで財布に入ってた? あんな前の」
「え。捨ててなかった、から……」
俺の声は次第に小さく尻すぼみになった。
アップルティーは、俺がはじめてバイトに入った日に、木下さんがくれたんだ。だからずっと飲んでる。レシートは、木下さんとはじめてふたりで出かけたときの記念、俺の携帯電話の領収書だ。だからずっと取っておいた。
白状できるわけがねえ。
「お前、こないだ十八になったな」
「なりましたよ」
「R指定も解禁だよな」
「別に見てませんよっ」
いや、多少は見てるけど。
「十七のときはさすがにまずい気がした。でも十八になったからってすぐになにがどう変わるわけじゃなし。まだ高校生だし未成年だし。警戒心ゼロで夜だってのにひとり暮らしの俺んちまで来て、こっちの緊張にもまったく気がつかねーし」
「木下さん」
俺はできるだけ優しくしようと努めた。支離滅裂な会話をするくらい、木下さんは家庭の事情で傷ついてるんだろう。腹いせに噛みついた自分を猛省した。