ふるふる図書館


第23話 ディクショナリーはあてにしない。3



 コンビニ特有の煌々と明るい蛍光灯を浴びた駐車場。俺は所在なくたたずんで、木下さんのシビックを待った。
 田舎だから人影も少なく、何人かでつるんだ若者たちがちらほら行きかうだけだ。
 むき出しの肌にまといつく暑さも、いくぶんしのぎやすくなっている。虫の声が聞こえてくるのにぼんやりと耳を傾けた。夏の夜はなんだか、妙にものさびしい、しみじみと静かな心持ちになる。熱がひいた後みたいだ。
 そっと目を閉じて、車道に意識を集中する。耳をじっとすませる。
 この音? ちがう。この車? ちがう。
 あ。これだ。とまぶたを開けると、見慣れた車体が目の前にすべりこんできた。
「お前、律儀に外で待ってなくてもいいのに。暑いし、蚊に刺されんぞ」
 車から降り立った木下さんが、俺の前に立つなり、間延びした声で指摘した。ほんのり甘酸っぱい気分もたやすく崩壊だ。
「あー、やっぱ食われてる」
 指さすところを見れば、ぷっくりとしたピンクのふくらみが二の腕にできていた。やたら目ざといな。
「キンカンあるか? ムヒでもかゆみ止めパッチでもいーけど」
 そんなもの、所持してない。
 持ってませんという身振りをすると、木下さんは俺の腕を取って、その跡に爪を立てた。バッテン印がくっきりつく。なんのまじないだか。そういや、七十八になる祖母ちゃんもこんなことやってたっけ。
「なにをぼーっとしてたんだよ。そんなに深刻なことなのか?」
 デフォルトそのままののほほんぶりで、木下さんは俺の目をまっすぐのぞいた。
 あの不穏な低い声が脳裏からたちまち払拭され、安心すると同時に、少し腹が立った。
 誰のせいで足を負傷したり蚊に吸血されたりしてんだよ。こんなに自然でいつもどおりじゃんか。なんでこんなに俺を惑わすんだよ。ムカツク。
 ほとんど言いがかりというか逆ギレというか逆恨みというかそんななんだけど、たまには仕返ししたくって、俺は沈んだ表情をゆるめることなくことさらうつむいてみせた。
「車乗るか? ちょっとそのへんドライブするか」
 子供をあやすように、ぽんぽんと俺の頭を叩いて木下さんが言った。ちょっとだけ、俺に戸惑いをおぼえている、ような気がする。報復ってより、これは甘えかもしれない。そう気づくと、急に情けなくなった。
 俺は、だいぶなじんだナビシートに腰かけた。木下さんも運転席に座り、エンジンキーをまわす。
 その瞬間。
「アンンンコォォォォ~~~」
 コブシの効きまくった熱唱がとどろいた。俺はうっかりぶはっと吹いてしまった。
「な、なんで『アンコ椿は恋の花』なんて流してんですかっ。しかもいきなりサビかよ! これから青少年の悩み相談を受けようってときにアンタ、やる気あるんですかっ」
 真剣に詰め寄る俺の叱責にも、「アンアアンアアンアン♪」と都はるみが声をかぶせてくるもんだから、ちっとも状況はシリアスになってくれねえ。
「それがなあ。俺の趣味じゃない、谷村がくれたんだ」
「谷村さんが?」
「デートでドライブするよーなときにおすすめの曲があったら貸してくれって言ったんだ、そしたらこーゆーのよこしやがって。俺もさっき聞いておどろいた、まんまといっぱい食わされた」
 都はるみは少しも非がないのに、ファンが激怒して石投げるようなことを言い、うししときてれつな笑い声を立てた。
「男の嫉妬は醜いってことさね」
 デート、ね。ふうん、奥さんとデートなんてしてんだ。きっとこの席にも座ってるんだよな、あの人。
 だったら、なんで今かけんだよ、そのCD。
「止めてください」
「都はるみ、嫌いか?」
「そーじゃなくてっ。今流さなくてもいいでしょ」
 自分でもドキリとするほどつっけんどんな口調になり、ひそかに反省した。だから可愛いなんて言われなくなるんだな、俺。いや、言われたくねー、ねーけどっ。
 ああ、ほんっとわかんね。自分のことも。木下さんのことも。
 つい、ずっしりためいきをついた俺にひとまずなにも言葉をかけず、割と神妙な顔つきで、木下さんはCDを替えてくれた。
 おかげで、悩みがある演技をする必要なくなったよ。

20080112
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