ふるふる図書館


第23話 ディクショナリーはあてにしない。1



「おい公葵、母さんが、腹が減ってるなら自分で冷麦ゆでて食えってさ。で、なにやってんのお前」
 呆れた声が頭上からして、床にしゃがんでいた俺はうるうるした目で兄貴を仰ぎ見た。
「こ、広辞苑が足に降ってきた」
「ドジ」
「あ。そうだ兄貴!」
 勢いよく立ち上がってすぐさま後悔した。痛みはまだおさまってない。ぴょんぴょんこケンケンしながら兄貴に迫った。
「辞書貸して、辞書」
 兄貴はわずかに体をひいた。
「そいつでいいだろ」
「ほかのも見たいんだ。つか、可能なかぎりすべての辞書が見たいっ。今すぐ! ただちに! すぐさま! As soon as!」
 そーだよ、他の辞書には、こんな衝撃的な記述なんか載ってないかもしれないじゃんか。これ思いっきり古いし!
 足をひきずり涙をにじませ血相変えて詰め寄る弟の、ただならぬ向学心に気圧されたのか、痛切なる願いをかなえてくれる気になったらしい。
「こっちに来い」
 兄貴が自分の部屋に俺を招いた。
 数冊の辞書を広げ、インターネットでも調べた。
「満足したか」
「うむむ」
 俺はひたすらうなりを上げた。兄貴が俺の手元をのぞきこむ。
「なに調べてんださっきから」
「どうしようっ、どうしよう兄貴っ」
 俺は思い切って兄貴を振り返り、すがりつかんばかりに困惑をぶつけた。
「どうした」
「木下さんに……か、か、可愛いって言われたっ」
 勢いで話しはじめたくせに、肝心なところは口ごもる。
「それが?」
 兄貴は冷静そのものだ。きれいな眉をしかめて、なにがそんなにオオゴトなんだって顔してる。
「で、辞書ひけって言われたんだ木下さんに。そしたらさ、愛すべきだとか辞書に書いてあるんだぞ。いや、でもでも、『可愛い孫』とか『可愛い息子』とか、そういう意味だよな、家族に抱く愛情だよな。ちがうちがう、絶対ちがう」
 俺はぶつぶつつぶやきながら、頭をぶるぶる振った。巨大なでんでん太鼓と化した弟を前にしても、兄貴は平然としたものだ。
「聞いてみればいいだろ、本人に」
「な。なんて怖い提案するんだよ!」
「木下さんが語義を調べろって指示出ししたんだから、正解を与える義務があるぞあの人には」
 ……だけどさ。
 可愛いなんてもう言わない。
 木下さんは別れ際、確かにそう告げた。俺が「可愛い」と言われることをいやがったからだ。なのに、唐突に頭によみがえったその声の低さが、俺に重たくのしかかってきて、ぎゅうっと胸をつぶしそうになった。
 俺のこと、もう、可愛いって思わないってことか。そういうことなんだろうか。

20080112
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