ふるふる図書館


第22話 ファーストネームはよばれない。3



 仕事が終わった。なんだか異様に疲れた。ぐったりと。
 ああ、木下さんのことをいい人だって思いこんでたときには、まる一日だって平気ですいすい楽々働けそうな気がしてたのに。それが一転、たったの数時間でこんなに疲弊する体になったとは。店長が泣いて悲しむぞ。
「お疲れさん」
 スタッフルームで帰り支度をしていると、木下さんが俺にスキンシップをはかってきた。
「うわっ、やめてくださいよお!」
 叫ぶ俺と、抗議をものともしない木下さんに向けられる、周囲の視線が痛い。
「奥さんがいるくせに」
 この台詞を言い放ちたくて仕方ない。こらえろ、こらえるんだ。「本妻に嫉妬する愛人」の座を授与された日には目も当てらんない。
 お疲れさまでした、と挨拶しながら俺はとっとと職員通用口から外に出た。公葵君、お逃げなさい。すたこらさっさっさのさ。
 ところが木下さんが後からちゃっかりのこのこついてくる。森のくまさん(にしてはずいぶん小柄)がへらへら言った。
「おやおやぁ、ほんとにお疲れだなあ桜田君はー」
「誰のせいだと思ってるんですか」
「誰のせい?」
「木下さんでしょ!」
 びしっと指摘してやったのに、木下さんはきょとんと首をかしげてみせた。
「へ? 俺は元気ハツラツだぞ」
 もしかして、木下さん俺の精気を吸収している不死身のヴァンパイアなんじゃなかろうか。こんな生き生きした吸血鬼なんて絶対ヤダ。
「なんだってそんなに元気なんですか」
「コーキが可愛いから」
「はあ?!」
 まったく脈絡も関連性もないことをぺろっと吐かれて、俺は声を裏返してしまった。
「かっ、可愛いゆーな、十八の男子に向かって! つか、名前呼ぶな!」
 わかったぞ。いつも苗字で呼んでるのは、こうして不意打ちをしかけて俺への攻撃力と破壊力をより高めるためなんだ! なんて周到な戦略だ。
「名前呼ばれるのいやなのか?」
「やですっ」
「ほんとにー?」
 俺はぐっと唇をかんで膨れ面を作った。かつての俺の数々の言動が、今のひとことを裏切っている。
「わかった。可愛いなんてもう言わねー」
 強情に無言を貫いていたら、木下さんがぽつりとこぼした。
「えっ」
 急激に声のトーンを落とした木下さんにぎくりとして、俺は天の岩戸状態だった口を思わずひらいてしまった。女神アメノウズメのストリップショーだって、俺の黙秘は解けなかっただろーに。
「『可愛い』って言葉、辞書でひいたことあるか?」
 問われて首を横に振った。これはひけって暗に言ってる、よな?
 なんだろ。そわそわして落ち着かず、ひとり電車で帰宅した。

 家に着くと、夕食の前に自室に上がり、さっそく広辞苑を取り出した。
 俺の部屋にあるのは父親のお古だから、第三版だ。昭和五十八年の出版だけど、平成になっても意味はそんなに変わっていないはずだよな。
 座りもせずに、茶色にすすけた分厚くて重たい字引をぱらぱらめくる。あった。五二〇ページ。
「えと、マルイチ。いたわしい。ふびんだ。かわいそうだ」
 これじゃねーよな。古文の引用があったので、飛ばす。飛ばしすぎて三番目の語義が先に視界に入った。
「マルサン。小さくて美しい」
 これ、でも、ない、のか? じゃ、最後だ。
「マルニ。愛すべきである。深い愛情を感じる」
 …………。
 !!!!
「うぐっ」
 俺はうめいた。呆然とした俺の手から滑って落下した広辞苑の角が、裸足の爪先をどすっとみごとに直撃したのだ。この重量はまさしく凶器だ。涙がぽろっとこぼれて頬を伝った。
 めちゃくちゃ痛い! 悶絶して泣いてんのはそのせいだっ! ほかに理由なんてないっ。ないったらない! 断じてない!
 顔と足を押さえてうずくまったまま、俺はしばらく動けずその場に固まっていた。

20071118
PREV
NEXT
INDEX

↑ PAGE TOP