ふるふる図書館


第22話 ファーストネームはよばれない。1



 休憩から戻り、仕事を再開したが。
 木下さんとしょっちゅう目が合うのが気になった。視線を感じるといつも、木下さんがそこにいるのだ。やけにウキウキ楽しそうに。
 見られていると察知したら、仕方なく木下さんのほうに顔を動かす。
 無視するのも悪いな、と気遣ってのことだ。だってあからさまに「こっち向いてオーラ」が出てるんだもん。ムーミンか俺は。恥ずかしがってないっつーの。
 そんな俺の思いやりに気づいているのかどうなのか、木下さんは満面の笑みを全開にして隠そうともしない。あまつさえ、小さく手なんか振っている。
 うー、駄目だ、つられる。俺は必死に顔を平静に保とうと努力する。上下の唇を歯の間にひっこめたり、横を向いたり下を向いたり、口をぎゅーっとへの字にしたり。それでも唇がぷるぷる震える。
 ううー、笑いをこらえるのって難しいな。新手のいやがらせだろうか。どうにかごまかそうと頬を膨らませて、木下さんを上目遣いにじろっと一瞥した。
「ありゃ、にらまれちゃった」
「にらんでません!」
「ありゃりゃ、怒られちゃったっ」
「怒ってませんってば!」
 まるで俺がいばりんぼみたいじゃないかっ。早々に木下さんのそばから退散した。
 バイトの先輩たちが在庫チェックをしていたので、手伝いをしようと近寄ると、一様に感心した表情で迎え入れられた。
「桜田君たちってほんとうに、仲いいなあ」
「俺と誰ですか?」
「木下さんだよもちろん」
「いやっそんなことないですようっ」
 俺は首と両手をやっきになって振った。顔が上気して困った。
「かまわれてそんなに嬉しいの? 赤くなっちゃって」
 嬉しい? 斬新すぎる解釈だ。俺、嬉しがってんのか? そんなまさか。
「ほんと、木下さんって桜田君のことお気に入りだよね」
「だってねえ。桜田君を見る目つきも顔つきも、ねー。全然ほかとはちがうもん」
 ああ、どうしよう。なんで誤解されるような態度を平気で取るんだあの人は。妻帯者なのにさ。いや、既婚だから安心してる? 油断してる?
 だけどここで、「木下さん、奥さんいるから」なんて口にしたらいっそう変だ。俺たちのっぴきならない関係だって告げてるよーなもんじゃんか。黙っとけ俺。言ったら最後、しゃれにならん。墓穴だ。
 悶々とする俺の苦悩をよそに、ゴキゲンそうな木下さんが遠くに見えた。誰のおかげで俺が窮地に立たされてんだ。ひとり能天気なその後頭部を思うさま蹴飛ばしてやりてーよ。
 れっきとした既婚者のくせにっ。あんなふうに俺を見んなよ。俺にちょっかいかけてくんなよ。不審に思われるだろーが! 憎たらしい!
 だいたい、木下さんは、俺とそんな風聞が立ってもいいのかよ?
 という疑問は意外なルートから氷解した。

20071118
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