ふるふる図書館


第15話 ハーツイーズはほどとおい。3



 こぢんまりとした店内には人影がなかった。ほかの客といえば、奥のテーブルに男の人がひとり座ってノートパソコンを静かに打ってるだけだ。
 俺たち三人は、窓際のテーブルを選んだ。俺と涼平が並び、俺の向かいに木下さんが腰かけた。店のあちこちに小さな花のモチーフがあしらわれている。
「この花ってパンジーだよな」
 俺がひとりごとを漏らすと、木下さんが答えた。
「そ、三色すみれ。『ハーツイーズ』は直訳すれば『心の平安』だけど、パンジー、三色すみれの原種とも別名ともいわれてる。すみれは種が多すぎて、異名も多すぎて、どれがどういう関係なのか俺にははっきりわからんけどな」
「そうなんです、三色すみれなんです」
 七瀬さんが微笑んだ。本領発揮といったところか、木下さんの話はとめどなくよどみなく立て板に水とばかりにすらすら続く。
「恋の花だとされていて、媚薬にも用いられたそうだよな。シェイクスピアの『真夏の夜の夢』に出てきた惚れ薬も、三色すみれだったんじゃなかったか。ほれ、パスカルの『パンセ』。『パンセ』はフランス語で『考え』って意味だって説明したよな。パンジーっていうのはそれに由来してるんだ。花言葉は『物思い』。咲いてるさまがそういう顔に見えるからだとさ、おぼえとけ」
「はい」
 話の後半は俺に向けられていたのが明らかだったので、首をすぼめて素直に返事した。昨日職場で、「ほらほらあの、パスカルの著作ってなんでしたっけ名前! 有名なやつ」と木下さんをとっつかまえて尋ねたばかりだったからだ。お前ちゃんと学校の授業受けてんのか、とずいぶん疑惑の目を向けられたんだった。
「リョーヘー君は、パンジー好きそうだよな」
 やぶからぼうに矛先を向けられた涼平は、ちょっと赤くなって視線を泳がせた。なんのこっちゃ。
「で、ナナセさんはイギリス好き、と」
「え」
 七瀬さんはきょとんとした。
「いえね、さっきからイギリスにまつわる話が出るたびに反応がいいから。それに、この店の紅茶とハーブティーの品揃えはすごいなって」
「うわ。見破りましたか。すごいですね。実はそちらの血が混じってるんです。曾祖母がどうもイギリス人だったらしくって」
 ソーソボ? ひいばあさんのことか。へえ、だから肌とか目とか髪の色が淡いのかな。
「かっこいいなあ」
 紛うことなき東洋人の俺はうっとりしてしまった。
「魔女の話か」
 唐突に聞き慣れない声がした。奥にいた客が俺たちのほうに顔を向けていた。クールビューティっていうんだろうか、めったやたらに美形だ。歳のころは三十前後といったところか。
「お前は黙ってろよ」
 七瀬さんが客に向かってむっと口をとがらせたので意表をつかれた。友達なのか? ものすげー意外だ、全然タイプかぶってない。クールビューティは七瀬さんににらまれても、いっかな動じず恬としている。
「事実だろ」
「人聞き悪いこと言うなよ! お客さんがおどろくだろ」
 七瀬さんに抗議され、クールビューティがぷっと吹いた。
「それ、なにかある家系だって自分で暴露したようなものだろうが」
「うぐっ」
 口を両手でぱっと押さえる七瀬さん。う、愛くるしい。
 でもなんだろう、家系の秘密って。
 七瀬さんは眉尻をさげてぼそぼそ告白した。
「女系なんですよ。男子はほとんど若死にするんです」
「ええっ。七瀬さんは?」
「例外中の例外なんです。こんな見かけなので目こぼしされているみたいです……こういう事情なので、あいつが魔女の呪いだっておもしろがって」
「ふむ。なるほど」
 木下さんが腕組みし、真面目くさって重々しくうなずいた。いやーな予感がした。
「心配ありませんよ、桜田君は関わり合いになっても命は落としません。男子の身でありながら、俺の嫁になる予定だから」
「はあっ?」
 とんきょうな叫びが、俺と涼平の双方の口から飛び出した。
「ちょっと木下さんっ。どういうことですか! 約束がちがうでしょ! 協定破って抜け駆けする気ですか!」
「あれ本気だったんですか? 俺にウエディングドレスを着ろってことですか! このど変態。打掛だってごめんだからな!」
 木下さんがぽむと手を打つ。
「あ、花嫁衣裳か。そこまで考えてなかった。お前たまには冴えてるな。うん、似合うかも」
「木下さんっ!」
 俺と涼平の異口同音の怒号の中でも、七瀬さんに話しかけるクールビューティの声はよく響く。
「また色仕掛けで男をひっかけてきたかと思ったが、今度はおもしろいの釣ってきたな」
「そんなことしてませんっ。まったくもう、お前の台詞はいちいち外聞がよくないよ……」

20070930
PREV
NEXT
INDEX

↑ PAGE TOP