ふるふる図書館


第12話 アンブレラのであい。2



 五階のフロアから見る窓からの眺めが、素晴らしかった。
 休憩時間になると、俺は更衣室にすっとんでいって、ロッカーから携帯を取り出した。
 夕焼け空を写真に撮っておこうって思ったんだ。早くしないと、雲行きが変わっちゃう。ぽつぽつと浮かんだ雲が赤く染まって、青いグラデーションをまだ残した空とのコントラストが絶景だった。
 急いで裏の階段をのぼった。ここならひと気もないし、人目を気にすることはない。
 シャッターボタンを押す。かしゃり、と小さな音を立てる携帯。画面を確認し、頬をゆるませながら窓から離れたその瞬間、「わっ」と叫んで飛び上がりそうになった。マジで携帯を床に落っことすとこだった。
 さっきのお客さん、七瀬さんが立っていたのだ。
 そうか、ここ狭いから、俺が通路をふさいでいて邪魔だったのかもしれない。つか、一部始終を見られてた? 俺は超絶に恥ずかしくて鼓動ががんがん早鐘を打った。それに、仕事中にこんなことしてるって思われたらどうしようっ。
「すいませんっ」
 俺が頭を下げると、七瀬さんはまた首をかたむけて「いい写真、撮れました?」と尋ねた。
「あ、はい……」
 蚊の鳴くような、て表現があるが、蚊よりも俺の声のほうがかぼそかった自信がある。
「ほんとに、きれいな空ですよね。ひとりで見るの、もったいないくらい」
 七瀬さんは空を眺め、おだやかにふんわりと笑ってくれたのだった。

 バイトを終えて店の外に出ると、雨が降っていた。
 さっきまでは天気がよかったのに。天気予報を見ずに家を出たから傘を持ってこなかった。どうせ夏だし、濡れてもいいか。
 潔く足を踏み出そうとしたら、バーバリーチェックの柄の傘が差しかけられた。
「よかったらどうぞ」
 振り返ると七瀬さんだった。
「今日はよく会いますね」
 いたずらっぽく七瀬さんが言う。よく笑う人なんだなと俺はつい見とれたのち、我に返って謝絶した。
「いいですよ、そんな。悪いです」
「いいです」と「悪いです」を並べた変な日本語だ。どっちだよ。イーデス・ハンソンもびっくりだよ。しかし七瀬さんは気にしないでいてくれた。
「駅まででしょう? 道、一緒ですし。あ。相合傘をしてるところを見て嫉妬する人がいるのかな」
「え。そんな。いないですよっ」
 とっさに木下さんが思い浮かび、俺はそれを打ち消すように手を顔の前でぱたぱた動かした。
「それとも、男の傘に入るのって気持ち悪いかな。おじさんとふたりなんて」
 俺はあっけにとられて目をぱちくりさせてしまった。
「おじさん? え? うそ、全然見えない」
 そんなに若いのに? 見た目二十歳くらい? 多めに見積もっても木下さんくらいだろうか? 謙遜?
「ありがとう。でも、高校生から見たらおじさんだと思いますよ」
 おじさんなんて似合わない、七瀬さんは可愛らしくてきれいな人なのに。でもそんなことは年端もいかないガキの口から言うべきじゃない。目上だしお客さんだし男の人だし、失礼だ。
「気持ち悪くなんて、ないです!」
 それだけ伝えるのがせいぜいだ。よかった、と七瀬さんは自然に歩き出し、俺もまた当然のように七瀬さんと並んで傘におさまっていた。
「あ、あの。俺持ちます」
 俺は残念なことに長身の部類に入りそこねているが、七瀬さんはさらに小柄だ。腕を伸ばすように傘を差しているのが申し訳なくて、俺は交代した。七瀬さんの肩に滴が垂れてこないように苦心していると。
「桜田君、肩が濡れてる。遠慮しないで、こちらに寄ってください」
 ごくごくナチュラルに名前を呼ばれてびっくりした。
「俺の名前……あそうか、注文票に載ってたからですね」
「それもあるけれど。接客するとき、名乗ってくれるでしょう。だからおぼえました」
 ちゃんと気に留めてくれてるんだなあ……。と感動する俺の脳内を読んだように七瀬さんは続ける。
「いい年して、人見知りなんです。まして本って、自分の内面を知られるようで恥ずかしくて。だから、感じのいい店員さんにしか話しかけられないんです」
 七瀬さんは、はにかんだように白い頬を染めた。
「感じがいいですか」
 ほめられて単純によろこんで、社交辞令かもなんて疑いもせずわざわざ問い返す。なのに七瀬さんはうざがりもせず、しっかり肯定してくれた。あ、もう、ますます舞い上がりそう。
「ああよかった。俺、人付き合いが苦手だから。接客業向いてないかと思ってました」
「そうなんですか?」
「学校じゃ友達いないし、浮いてるし」
「そんなふうに見えないけど。ほら今、ちゃんと話をしてくれてるでしょ?」
「それは、なな」
 さらりと名前を呼びそうになって、俺はあわてて口をつぐんだ。やべ。これって個人情報だよな。うっかり表に出すもんじゃない。でも、「お客さま」って呼びかけるの変かな。「あなた」ってのもちがうし。うーんと、どうしよ。
「あ、名前おぼえてくれてたんですね。そう、七瀬です」
 俺の懸念に反し、七瀬さん、屈託ない。よかった。俺も胸の奥がふわふわした。客と店員なのに、店の外でも親しく会話ができるなんて。涼平のときもだったけど、あいつはタメで幼なじみだったから。こんな縁で大人と仲よくしてもらえるなんて不思議だ。
「七瀬さんが大人だから、きっと話しやすいんです」
「うわ、ほんと? やった。そう言ってもらえると嬉しいな。いまだに子供扱いされてるから、今の、録音してみんなに聞かせてまわりたいです」
 無邪気な様子につい吹き出す。たしかにどこか浮世離れしていて、勤め人には到底見えない。かといって学生っぽい浮ついたところもないし。やっぱり謎な人だ。
 あれこれ勝手に推理していたら、車道側にいた俺のそばを車がえらい勢いで通り過ぎていった。
「危ない」
 七瀬さんが俺の腕に手をかけてひっぱってくれた。
「水かけられたりしなかった? 無事?」
 カップルみたいな態勢で体が密着してるのにも構いつけず、俺の顔を仰いで尋ねる。寄せた眉根の下の眼が大きくて、白人みたいに色が淡くて、まつげが長くて、問いにうなずきつつも俺は急にドギマギした。
「恋でもしてるんじゃないの?」という今朝の母親の声が、因果なことにこんなタイミングに限ってよみがえってくる。
 うそ、まさかこれってトキメキ? 年上の男の人に? いやいや、俺には……。
 あれ。俺には誰かいたっけ? いないよな、うん、いない。

20070827
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