ふるふる図書館


第12話 アンブレラのであい。1



 俺の朝はコーヒーとともに始まる。
 とかいうとハードボイルドな大人の男みたいだが、俺のコーヒーははなはだ不本意ながら砂糖と牛乳たっぷりの、至ってオコサマ仕様だ。カフェオレだのカフェラテだのいうとまだ格好はつくけど、要するにコーヒー牛乳以外のなにものでもない。
 いまだに無糖ブラックが苦手なのは、
「子供がコーヒー飲むと馬鹿になる」
 という母親の方針で、コーヒー牛乳しか飲ませてもらえなかったせいだ。
「結局馬鹿になったじゃん、俺」
 母親にそう抗議しても、
「あら、よかったじゃないその程度で済んで」
 一刀両断、あっさりばっさり瞬殺だ。ひでえ。
 兄貴は俺の向かいの席で、涼しい顔して静かにブラックコーヒーを飲んでいる。コーヒー牛乳をはるか昔に卒業したのに、一流大学の大学院に通えるほどのおつむだなんて、世の中は実に不公平だ。まさに理不尽だっ。
 むっすりしながらマグカップを傾けていると、母親が「ところで公葵」と話を振ってきた。
「彼女できたの?」
 はあっ?
 口に入れたコーヒー牛乳を水芸よろしく吹きそうになった。ザ・グレート・カブキか俺は。そんなことしたら兄貴ににらみ殺される。糸屋の娘は目で殺す、みたいな色っぽい事態であるはずはむろんなく、俺は必死にコーヒー牛乳を飲みくだした。けほけほ、軽くむせるくらいは容赦してもらいたい。
「な、なんで?」
「ハハの勘。最近どうもそわそわしてない? 恋でもしてるんじゃないの?」
「こ、恋?」
 なんつうことを聞いてくるんだ朝っぱらから単刀直入にっ。少しはオブラートに包めよ!
「ちがったの? あら残念」
「残念言うか? 母親ってのは、息子に彼女ができたら嫉妬するとかさびしがるとかすんじゃねーの?」
「お前の場合、一生浮いた話がないんじゃないかとそっちのほうが怖いわよ。お兄ちゃんなら全然そういう心配ないけどね」
「あ、そ」
「ほんとソウちゃんって、お父さんの若いころそっくりでね。それはそれは素敵だったのよーお父さん」
「あっ、そっ」
 俺はそれ以上の相槌を打つ気力も失い、黙々とトーストにかぶりついた。どうせ桜田家のうち俺だけ平々凡々ですよ、なんの取柄もありませんよ、さっぱりもてませんよ。あーあ。
 母親のこのあんまりな仕打ちといい、俺って橋げたの下から拾われてきた子じゃないのだろーか。おのが出生への疑惑に、ひとり胸を痛める桜田公葵十八歳の夏。

 高校生活最後の夏休みを、俺はバイトに明け暮れることに決めていた。
 着替えて店に入って連絡事項を聞いて、持ち場に行く。
 俺の近くを通りかかったお客さんが、なんのはずみか、手にしていた傘を落とした。拾おうと腰を屈める前に、俺はさっとすばやく傘を拾って渡した。
「あ、ありがとうございます」
 お客さんが、にっこりとお礼を言ってくれた。本当に嬉しそうだったから、俺もつられて満面の笑みになってしまった。
「いえいえ」
 俺が手を振ると、お客さんがもう一度、微笑んで頭を下げる。接客の仕事を選んでよかったと実感するのは、こういうときだ。相手がよろこんでくれると俺も心があったかくなるし、束の間の触れ合いだけど通じ合えたように思えて気持ちがすごく浮き立つ。
 こんなこと、木下さんに言ったらきっと笑われるかからかわれるか、こけにされるか子供扱いされるんだろうけどさ。
 そういえば木下さん、今日は休みだったっけ。いじられなくて済むんだな。
「あ、あの」
 そのお客さんが、俺に話しかけてきた。小首をかしげるようにするしぐさが小動物っぽい。子りすとか子うさぎとか、げっ歯類の。
「取り寄せをお願いしていた本が届いたとご連絡いただきました。どこで受け取ればいいですか?」
「はい、こちらです」
 俺はカウンターに案内した。仕事を始めてしばらくは、ひとりでいるときお客さんに話しかけられるだけでも心臓バクバクだったのに、自然にこういうことができるようになったなんて、俺、成長してんだなあ。なんて、ふとした瞬間にちょっぴり誇らしくなる。
 お客さんが差し出してきた注文票の控えを見た。担当者欄には「サクラダ」と俺の殴り書きの署名。俺が受けた注文だったのか。
 俺のサインの上には、お客さんの名前がある。ご本人の肉筆だ。とってもきれいな字で、とってもきれいな名前だった。ああ、この人にふさわしいなあ。俺も、せめて名前くらいもっとちゃんと書かなくっちゃ。
 一連の手続きをすませると、七瀬さんというそのお客さんは、「ありがとうございました」と柔らかい物腰で立ち去った。ものの授受をするときも、片手でもぎ取るようにしていくお客さんもいるのに、七瀬さんは両手で丁寧にきちんと受け取る。お札もきちんと揃えて支払ってくれる。なんだか気分がよくなって、ささやかだけど幸せな気分に浸った。

20070827
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