ふるふる図書館


第5話 ファニーダックののろい。2



 はじめて木下さんの車に乗ったのは、おとといだ。俺はひどくはしゃいで、木下さんにからかわれた。
「だって木下さん、助手席って前を向いていても風景が目に入るんですよ。前からも横からも外が見えるんですよ!」
 ちょっとむきになって抗議したら、ますます笑われた。
「あはははは。助手席に乗ったことねーの?」
「家族でドライブするときはいつも後ろだから」
「じゃあ今日はナビシートデビューだ。よかったな!」
 その二日後の今夜もまたわくわく胸はずませる俺がいる。べ、別に木下さんとふたりで車に乗ってるからじゃないもん。なんてツンデレキャラみたいな台詞まわしはよせよ俺。
 木下さんは一流大学を出ているらしい。俺たちが勤めているのは大型書店だから、ナントカ学だのナントカ論だの、俺がタイトルを聞いてもちんぷんかんぷんな本をお客さんに尋ねられたりする。きっちり把握している木下さんを見ると、ああいわゆるインテリなんだなこの人はと感嘆する。なのにどうしてこうもギャップがあるかなあ。今日もすこぶる快調に、油でもさしたかのようになめらかに動く木下さんの舌。
 舌? 舌!
 うっ、緊張してきた。できんのか。いややるんだ。なせばなる。やってできないことはないっ。おのれのポテンシャルを信じるんだ桜田公葵!
 どこで決行すればいい? 俺の家に着いたとき? ずっとうちの前に車が停まっていたら、両親や近所の人が不審に思ったりするだろうか? うむむ。
 考えあぐねているうちに、のどがからからに渇いてきた。
「なんか飲むか?」
 俺の考えをそっくり読んだかのように木下さんが言う。エスパーかこの人は。ハザードを点滅させたシビックは道端の自販機の近くに停まった。
「買ってくるから待ってろ。アップルティーでいいよな」
 俺のよく飲んでるものをなんで知ってんだろ。つか、アップルティーを置いてる自販機なんて珍しいのに、なんで見つけられたんだろ。あたりを確認してみた。民家もなく車の通りもない路地だ。ぽつぽつと等間隔に立っている街灯の明るさが頼りない。ずいぶんマニアックな場所だな。
 お? これはもしや絶好のスポット、千載一遇のチャンスなのでは? そっとシートベルトをはずす。
 そんな俺の黒い企みなどつゆ知らない木下さん、平和な顔して戻ってきた。
「ほい。おごり」
「ありがとうございます」
 礼を言って受け取って。
「あの。ちょっと待ってください」
「ん?」
 ドアを閉めた木下さんがこっちを向いた。俺は木下さんに対峙し決然と口をひらく。心臓がそこから飛び出そうっ。
「し」
「し?」
「しゅっ、しゅ」
 ええい俺は汽車ぽっぽか。乾燥しきった上唇を舐めた。
「俊介さんっ」
 見たぞっ。たしかに木下さんがあっけにとられる貴重な世紀の一瞬をっ! やった確実に先手を取ったぞ。俺の顔がゆでだこになっていたとしても、たいしたマイナスポイントじゃない。
 俺は運転席にすばやく身を乗り出した。自分の唇全体に違和感が広がる。一度目とちがって、何だろうと思うことはなかった。でも今回はもっと未知なる感覚が続々とやってきた。
 息が鼻から抜ける。エアコンがきいているのに全身が熱い。頭がくらくらして胸が苦しくてなにも考えられないのは、酸素がたりないせい?

 肩を揺さぶられた。
「着いたぞ。起きろ」
「……んん?」
 俺はまぶたを両手の甲でごしごしこすった。うすくらがりにうすぼんやりと浮かぶのは見慣れた自宅。あれ寝ちゃってた? いつの間に?
「ずいぶん疲れてるみたいだな。あんまり無理すんな」
「あ……俺、ずっと寝てました?」
 寝起きのせいかかすれてうまく声が出ない。
「そーでもないぞ」
「す、すみません。運転してもらってるのにひとりでぐーすかと」
「いいって。今夜は早めに休めよ?」
「はい。ありがとうございました」
 なんだあ、作戦遂行は夢? またこのパターンかよ? 連続夢オチなんて、これが漫画だったら読者が怒るぞ。
 俺はシビックのテールランプが闇に消えていくのを突っ立ったままぼけっと見送った。そっと口を指で触った。やけに生々しい感触が残ってて、ひとり赤面してしまう。俺って欲求不満だったのか? なんで木下さんが相手なんだいつも。いや待て今回はシミュレートとしての夢だったんだ。そーだそーゆーことっ。自分を懸命に納得させつつ家に入った。

 翌朝。起きぬけに自分の部屋を出て、廊下で兄貴と顔を合わせるなり吹き出された。
「アヒルか?」
「へ?」
「鏡見てみろ、ほら」
 二階に備えつけの洗面台に近寄って、ぎょっとした。
「なっなんだこれえ!」
 口がくちばしみたいに膨れ上がってる。とても人間と思えん。
「病気か? それとも妖怪鳥人間にでもなっちまうのか?」
 狼狽しまくる俺とは対照的に兄貴は冷静そのものだった。
「ずいぶん吸われたもんだな」
「うわ、バルサン焚かなきゃ。そんなにダニが発生してたのか」
「あの人をダニ扱いするとはお前も容赦ないな」
「あの人って?」
「木下さんに決まってんだろ」
「え。人間に吸われてこんなんなるもんなのか?」
「なるよ」
「マジ? 毒をしこまれたとか特殊能力とかじゃなくて?」
「単に度を越しただけだ」
「へえ、そうなんだ……。あれ、でも昨日言ったじゃん、俺車で寝ちゃって不発に終わったって」
「じゃあ寝てる間だったのかもな。その腫れっぷりだと主導権を握れなかったみたいだし」
 はっとした。あれ、リアリティたっぷりの夢だったってわけじゃなくって単にリアルだったっつうことか? どーなってんだよ? と真相を追究する前に、これじゃみっともなくて学校にも行けやしねえよ。
「氷で冷やせば治るかな」
「それで駄目ならマスクだな」
 うええ。マジかー。こんなくそ暑いのに!

20060713
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