ふるふる図書館


第5話 ファニーダックののろい。3



「ほえ?」
 俺のマスクを見るなり目をぱちくりさせる木下さんの腕をひっぱって、誰もいないバックヤードへ連行した。サウナもどきの蒸し暑さだが、選択の余地はない。
「どうした風邪でもひいたのか? もしつらいなら……」
「呪いをかけられました」
 俺は低い声でおごそかに言った。
「呪い?」
「怪人アヒル男です」
 変装マスクを顔からべりべりひっぺがす往年のドラマの明智小五郎になった気分で俺はマスクをおもむろにはずした。
「あっ……」
 そうはさせじと木下さんの口にぱっと手で蓋をした。ここで大笑いするのは勘弁してくれっ!
 俺のてのひらの下から、食い物をのどにつまらせたサザエさんみたいな呻きがうぐうぐと聞こえた。
「あーどーもすみませんねーうっかり鼻までふさいじゃってましたー」
 わざとらしく棒読みでうそぶいてやった。笑いの発作がおさまった頃合いに木下さんを解放。
「ふはあ。しかしひっでえなその口!」
「誰のせいですか」
 じとっと半目で木下さんをにらみすえると、木下さんはぽりぽりと頭をかいて、ほんわかのどかに感想をもらした。
「やりすぎちゃったかあ」
「やりすぎちゃったかあ、じゃないですっ! 俺が寝てるのをいいことにあんなことこんなことをしたんですか? やらしいなあっ」
 感触がよみがえって俺は顔面に血が上った。これは暑いせいっ。それからあとはえーと、そうだ怒ってるせいだっ。
「お前ね。飛んで火に入る夏の虫ってことわざ知ってる?」
「それくらい知ってますよ馬鹿にしないでください」
「さてここで問題です。昨夜、暗いふたりきりの密室と化した車内で、いきなり俺の名前を呼んで、頬を染めつつ目をとろんとさせつつ迫ってきたのはだーれだ?」
「……俺?」
「ピンポーン」
 なんで木下さんが俺の夢を知ってんの? 只者じゃないとは思っていたけどこの人実は超能力者?
「いやはや、自分で仕掛けておきながら途中で爆睡するやつなんてはじめてだ素面のくせに。お前只者じゃねえな」
「えっ、えっと。つまり俺は木下さんにお茶を買ってもらって、そのときに木下さんに襲撃をかけるも志なかばにして力尽きたと?」
「襲撃って。志なかばって。そーゆーことするつもりだったのコーキ君のえっちー!」
「ちっちがいますこれは言葉のあやってやつで。それになんですかやりすぎちゃったって!」
「お前の勢いが急になくなったからこれ幸いとずいぶんこっちから反撃したんだよね。でもよくよく見たら、お前すやすや眠ってやんの。寝不足みたいだったからな」
 そういえば、木下さんへのリターンマッチを考えるあまり、日曜の晩は悶々として寝つけなかった。昨日はハイになってたからわからなかったけど、ほんとは体力消耗してたんだ。木下さん感づいてたんだな、俺本人さえ気づいてなかったのに。それで心配して送り届けてくれた?
 みぞおちのあたりがずきんと痛んだ。これって俗にいう胸キュンってやつ? なぜに。
「もっと早くお前が寝てるのがわかればすぐやめたのに」
 え。そーなんだ?
「……やめてたんですか」
 ついつい気落ちしてしまう。だからなぜに。
「あああもう。そんな目で見るなっての。だから飛んで火に入るなんとやらなんだよ!」
 どういうことだそりゃ。やっぱり俺、ことわざの語義わかってなかった?
「あのな、意識のないの相手にしてもつまらんわけよ。俺は鬼畜じゃねーからな。反応を見ながらのほうがずっとずっと楽しい」
 それはそれで鬼畜っぽくね?
「今日は体つらくないか? 平気か?」
 木下さんが俺の目をのぞきこむ。淡い照明に木下さんの独特な色合いの虹彩が透けて、俺をドギマギさせた。真面目くさった面持ちと裏腹に、俺の耳にいたずらっぽい口調でささやく。
「俺の名前、もう呼んでくれねえの?」
「俊介さん……」
 俺の声帯は勝手に声をつむぎ出した。暑さでいかれたんか俺の言語中枢は? ブローカ中枢だかヴェルニッケ中枢だかわからんけど。
 木下さんの顔が俺の正面にまわった。相手の唇が自分のに近づいてくる気配ってわかるもんなんだな。不思議だ。高感度センサーでもついてんのだろうか。
 通算三回目になるはずなのに、まだガチガチに緊張してしまう。間近で木下さんを見るのも視界を閉ざすのもどっちもドキドキするけど、でも思い切ってまぶたをつぶった。足がガクガク震えて倒れそう。
「ぷ」
 ぷ?
「あははははは! やっぱおかしいそのアヒル! わははははっ」
 場所柄自粛はしているものの膝をばんばん叩いて大受けしている木下さんを、俺はただただ呆然と見やった。
 うっそ。ここでそーゆー展開なわけ? ひでえ。傷ついた超傷ついたっ。
 マジで泣きそうになってると、木下さんは電光石火の早業で俺のアヒルくちばしをちゅっと軽くついばんだ。
「これ以上やるともっとアヒルになるからまた今度な」
 なっなにそれえ? 俺はさらにさらに泣きたくなった。完全に遊ばれて完璧にあしらわれてる。そもそも木下さんより優位に立とうと仕組んだはずが、あわれあえなく返り討ちに合い、気づけばすべて水の泡。まったくもってオジャンじゃん。なんてだじゃれはいーから俺。
 せっかくの兄貴の好意も無駄になってしまった。でも俺は負けないっ。踏まれても蹴られても這い上がってみせる。勝者の栄冠に輝くまで、何度でも立ち上がるんだっ。たとえ今はアヒルでも!

20060713
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