ふるふる図書館


第3話 ランチタイムはなさけない。3



「さっくっらっだ?」
 木下さんが背後からぴょこんと顔をのぞきこむ。いたずら好きのおちゃめな妖精かっての。あーそんな連想する俺がヤダ。俺のメルヘン野郎。
「怒った? 機嫌なおせってえ」
 こんなへらへらした妖精がいてたまるか。
「怒ってなんかいませんよっ」
「からかって悪かったからさー」
 それが謝罪の言葉なら、腹黒悪徳政治家は百万倍も誠実だ。あっさりすっきりさっぱりしたのどごしの、コクがないのにキレもない口調が俺の神経を完膚なきまでに逆なでした。一ミクロンでも悪びれろ。
「アオイちゃん?」
 無視っ。
「コーキ?」
 無視っ! その呼び方やめてくださいって言うだろうと計算したならお生憎さまですう。
「黙ってると襲うぞ?」
 なんだその発想のめざましい飛躍は。
「ひょっとして本気で俺のこと誘ってんのか? 背中を向けて台所に向かうエプロン姿は世の男の見果てぬ夢、あこがれてやまぬロマンの象徴だぞ」
 エプロン姿の女が、だろーが。それに職場のユニフォームだってエプロンじゃねーか。俺は茶筒の蓋にばさっと茶葉を取った。静岡産の高級茶なんて出してやらんぞ、スーパーのおつとめ品で398円だったほうじ茶で充分だっ。
「まったく俺のことを翻弄しやがってお前は」
 俺をドキリとさせる、落ち着いた、しっとりと甘く低くよく響く木下さんの声音。そうだ、この人がどんなに騒いでもはしゃいでも哄笑をとどろかせても俺が近くにいられるのは、木下さんの話しぶりが根底では安定していて聞き取りやすいからなんだ。でも今はほだされてやらんぞ。
 それに俺がいつ木下さんを翻弄したよ? 反対だろ。人のせいにすんなガキみたいに。子供のくせに大人で、大人のくせに子供なんだから。俺が振りまわされてんじゃん。
「コーキ、ほら、こっち向いて」
 あーそんなふうに言うなよ逆らえなくなるんだって。で木下さんのあの目を見たらつかまっちゃうのがわかりきってるんだそーやって俺のこと懐柔するんだわがままな子供をあやしてなだめすかしてご機嫌取りする大人のよーに! 悔しいっ。そりゃ俺はわがままなお子様かもしんないけどそれなりに屈辱なんだぞっ。
 まんまとその手に乗りたくなくて、俺は木下さんの目をありったけの恨みをこめてぎろりとにらんだ。なのに木下さんの琥珀色の瞳は予想どおりに笑ってる。ああやっぱり俺の負けだ。今日のところは勝ちを譲ろう潔く。

「ふううん?」
 木下さんが用足しに立った隙に、兄貴はにやにやと俺に視線を注いだ。
「なんだよ」
「べっつに? 木下さんもあーゆー顔してあーゆー声出すんだなって感心してるだけ。うわついてないあの人なんて想像だにできなかったぞ。ずいぶんレアなものを拝めたなって」
 軽佻浮薄な印象は、やっぱり万人共通なわけね。でもだったら俺じゃなくて木下さんに向かって笑えばいいのに。兄貴は実は木下さんの子分なんじゃねーのかと埒もないことを考えた。
「それにしてもお前って得な性格だよなあ」
 はあ? なんで?
「末っ子気質というかなんというか。昔からな」
 あれ? 兄貴、もしかして俺のことうらやんでる? そんな要素なんてバクテリオファージほどもないと思ってた。兄貴は兄貴でまた、俺のあずかり知らないものを抱えていたりするのかな。それがなんなのか聞く気も理解する気もないけど、「どうせ俺ばかり」なんて思っちゃいけないよな、うん。
「で?」
 兄貴はずいっと身を乗り出した。木下さんといい兄貴といい、どうして俺の周囲の年上の男どもはやたらに顔を近づけたがるんだ。
「お前と木下さんってそーゆー関係なわけ?」
「ど、どーゆー関係だよっ?」
 ついついどもったのは、兄貴が迫ってくるからだ。それ以外の理由はないっ。
「さっきも言っただろ、俺は迫害とかしないから。にーちゃんに話してみなさい胸襟をひらいて気兼ねなく。ほれほれ」
「またっ! 兄貴も俺のことからかって遊んで! 木下さんとおんなじ! ほんとは兄貴、木下さんと仲よしなくせにっ!」
 木下さんの前に強力な敵がいたんだしかもすぐ身近に。兄貴が相手じゃあ、十年たとうが二十年たとうが、「からかわれキャラ」属性を脱却なんてできない。しっかりしろ俺! がんばれ俺! ファイトだ俺!
 長い長い戦いはまだはじまったばかり。

20060709
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