ふるふる図書館


第2話 ドリームはもうみない。3



 ドアを開けたら、おなじみの満面の笑みが。
「よお」
 なんでこんなとこにいんだろ。俺いよいよおかしいかも。トリップしてるかも。思考に靄だか霞だかがかかってる。
「きのした、さん……?」
「ほかに誰がいるんだ」
 軽口を叩きながら、俺の顔をひょいとのぞきこむ。
「お前、おかしいぞ? 具合悪いのか? とにかく中入ろう、な?」
 至ってすこぶる健康です、妙なクスリをキメタだけです。うー、重症だ、こんなに優しげで心配そうな木下さんなんてこの世に実在するイキモノじゃない。UMAの幻覚まで見えるようになったのか。木下さんの呼気が俺の口もとをくすぐる。やけに臨場感と現実感にあふれた幻覚だな。
「横になったほうがいいぞ。こっちのソファでいいか?」
 俺の手が、木下さんのTシャツのすそをつかんだ。
「木下さん、ここじゃなくて、俺の部屋が、いいです。ベッド、あるし……」
 自分の息が荒くて熱っぽい。呂律もよくまわらない。
「わかった。二階か?」
 木下さんに支えられた俺はもつれこむようにして部屋に入り、ベッドに身を投げ出した。
「どーした、風邪か? 昨日は元気そうだったのに。寝冷えでもしたか?」
 おでこに当ててくる木下さんの手を、つかんだ。
「なんか、なんか俺、変。すげえドキドキする。病気みたい」
 そのまま木下さんの手を心臓のところに導いた、つもりだったが勘が狂った。木下さんの指先が俺の予期しない場所を滑ったとたん、ぴくっと体が跳ねた。いくらなんでも敏感になりすぎだ。とっさに声を抑えたが、この理性がいつまでもつやらわかったもんじゃない。
「桜田?」
「なんで、苗字に戻んの? 公葵って、呼んだじゃないですか、昨夜」
 なにをうわごとみたいなこと口走ってんだ俺ときたら。
「名前のほうがいいのか?」
 問いかけられて背筋がぞくぞくした。寒くもないのに。むしろ熱いぞ肌が。目もうるんでいるのか視界がぼんやりかすむ。
「俺の口から言わせる気ですか。ずるい」
 普段の俺からは考えられない台詞が惜しげもなく飛び出す。俺のキャラじゃない口調で。
「いつも俺のこと、子供扱いして、おもちゃにして……。もう十八なのに」
 誰だよお前。いや俺だけど。
「木下さん……。俺、おかしなクスリやっちゃった。すげえ疼く。疼いてたまんない。おさまんない。どうしよう」
 すがるように木下さんの淡色の瞳をじいっと見つめる。まったく恥も外聞もないのか俺はあ!
「クスリって、そんなのどっから手に入れたんだよ?」
「兄貴の、部屋にあって。知らなくて吸っちゃった」
 木下さんは俺から離れた。ちょっと不満に思っているとすぐに戻ってきた。例のカートンを持っている。
「これか?」
 俺がうなずくと、木下さんは眉をしかめた。口もともゆがんだ。
 三秒後。
「あはははははははっ!」
 日曜の平和でのどかな住宅街に、超ド級の大音声を誇る哄笑が炸裂した。
「お前これただの煙草だよ。ハーブの煙草だからちょっと珍しいけどな、コンビニでも売ってたりするし。言われてみりゃパッケージのデザインもアヤシイかなあ」
「えっでも『エクスタシー』って」
「あー、そういう名前の催淫剤もあったやね。そっちは錠剤。勘ちがいしたんだろ」
 え。ええ。えええええ。
「体火照ってるんだけど?」
「単に自己暗示にかかっただけだろ。プラセボだよ。これぞ偽薬効果、もとい媚薬効果。あんまり笑わせんな、腹痛え」
 木下さんはひいひい苦しげに、しかし極めて愉快げに言い放つ。うそ、うそお! なまじあんな夢を見たばかりにころっと簡単にだまされたんだあ! もし、うちに来たのが木下さんじゃなくて回覧板を持ってきた隣のおばさんだったら、こんなことなかった絶対にっ。
「お、エアプランツちゃん元気そうだな。水やっていいか? あーっ、携帯見てなかったのかよこれからお前んち行くってメールしたんだぞ。お前昨日俺の車に定期落として行ったからさ、エアプラちゃんに会いに行くついでに届けてやろうと思ってさ。こんな余興が待ち構えてるとはいやはや人間マットウに生きるもんだ」
 草がメインで俺はついでらしい。
 あまりのことに起きる気力もなくして茫然自失と石化している俺にとんとかまわず、木下さんはいつもどおりにぺらぺらへらへらしゃべり倒す。その声がはるか何億光年も遠い。
 俺の中では同じフレーズがぐるぐるぐるぐる、鳴門海峡のうずしおに負けないサイズのとぐろを巻いていた。
 もうバイト行けねえ辞めるもうバイト行けねえ辞めるもうバイト行けねえ辞める。
「バイト辞めんなよ?」
 いきなり至近距離に木下さんの声が戻ってきた。なんだこの人読心術が使えるのか。木下さんが真面目に言う。
「ったく、マジで心配したんだからな。俺もだまされたから、お互いさまってことにしとかね? この件に関しては他言無用な」
 その口ぶりに、ほんのちょっとだけ救われた。たしかにここでいつまでもへこんでいても仕方ない。俺は気をどうにか取り直して、といっても修復率半分にも満たなかったがうなずいた。
 木下さんは口の端をにっと上げて、俺の耳に近づいた。
「で? お前、俺に名前で呼ばれたいわけ? コーキ」
 俺は瞬間顔面を沸騰させ、豪腕ふるって枕をばしっと投げつけた。木下さんが動じもせずにけたけた笑う。
「赤くなってると可愛いぞ」
「あ、赤くなってないし可愛くないしっ!」
「コーキ、コーキ、コーキちゃん」
「だああっもお、やめてくださいっ! 選挙カーのウグイス嬢ですか!」
 自棄を起こして非日常的な行動に走るなど二度とするまい、と俺が心に固く固く誓ったのはいうまでもない。

20060707
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