第1話 エアプランツにおねがい。3
「なーんだよぉ、冴えない顔してー」
俺のほっぺたを、向かい側から手を伸ばして木下さんがむにいっとつねった。ムカツクくらい楽しげだ。
木下さんのいでたちときたら、褪せてしょっぱい風合いを醸し出してるたらんたらんのTシャツにハーフパンツにサンダルだ。いやサンダルじゃないツッカケだ。待ち合わせ場所に現れた木下さんの車の助手席のドアを開けた瞬間俺を脱力させた恐るべきスタイル。銭湯の帰りなのかと思わず洗面器やお風呂セットを探したくらいの。
気合入れた俺が間抜けすぎて逆にいとおしいよ。
「痛いですやめてくださいよ子供じゃあるまいし」
「子供だろお? ああいいなあ、このぴちぴちぷりぷりぷにぷにしたお肌。コラーゲンたっぷり。やー若い若い」
子供はそっちだっ!
「人をフカヒレみたいに言わないでください」
「そーかそーか食っていいのか。お言葉に甘えておいしくいただいちゃおっかなー」
げ、なに言い出すんだよ!
「だってーおいしそうだもーん」
げげ、隣のカップルがじろじろ見てる。くすくす笑ってる。ひそひそ話してる。恥ずかしいって! むやみやたらと地声がでかいから、会話が筒抜けなんだってば!
くそう、この人をなんとかおとなしくさせたい。いや、なんか本気でうろたえさせてやりたい。一度でいいから。
大声出したりすっとんきょうな奇声を発したりする割には、まごついたりあわてたりしているところを見たことないんだ。仕事のときだってそう、どんなアクシデントが起ころーと、いかなる不測の事態に見舞われよーと、木下さんののほほんぶりはびくともせずに健在かつ頑丈だ。
大人の余裕ってやつ? まっさか!
「木下さん。十八歳の抱負が決まりました」
「へえ? なんだ?」
「ふふん、秘密です」
意地悪したつもりなのに、拗ねもしないですこぶるゴキゲン。やっぱり悔しい。憎たらしい。度肝を抜いてやりたい。一泡吹かせてやりたい。ギャフン(死語)と言わせてやりたいっ。
あーっ、もう、さっさとその手を離せ。
心の叫びが聞こえたか。
急に、木下さんの指が頬から移って耳に触れた。びくっとした。反射的に「ひゃっ」と悲鳴を上げて目をつぶって首をすぼめてしまった。猫かよ俺は。
反応と感度のよすぎるおのれを呪いながらまぶたをあけると。
木下さんは笑ってなかった。
「コーキ、いいじゃん、そのイヤーカフ」
「へ」
まただ。また、あの真顔。あの目。すーっと吸いこまれるような瞳。なんていう色なんだろう、琥珀色? 蜂蜜色?
つか、今俺の下の名前呼んだ? 呼んだ! やめろよいきなり! こんなタイミングで、そんな口調で! 苗字でしか呼んだことないくせに! 後輩いじめ、バイトいびりかよ?
そもそも、なんで知ってるわけ? タイムカードを見たにしても、「公葵」だなんて初対面の人間にとんでもなく不親切な名前だぞ、なかなかさくっと正しく読めねって! あ、この人一応上司なんだっけ。混乱しすぎだ俺、落ち着け、静まれ、頭を冷やせ! えーっと、北極、南極、ペンギン、シロクマ、かき氷。ツンドラ気候、シベリア超特急、メンソレータム、サロンパス、タイガーバーム、トニックシャンプー、サンテFXネオ、クールミントガム、シーブリーズ、バスクリンクール……。
「指輪もクロスでお揃いなんだな。お前、髪も黒いままだしピアスの穴もあいてないから、そういう格好するとは思わなかった。よく似合うよ」
そうだ、まさにそれを言わせたかった、それを聞きたかったんだよ!
なのに、この敗北感はなんなんだ? どうして俺のほうが心臓バクバクさせてなきゃいけない? まちがってる、激しくまちがってる! 反対だろーが望ましいのは。
しかもこの人、俺の耳たぶまでしっかり観察してたって? いつの間に! ったく、油断も隙もあったもんじゃねえ。
俺はがっくりテーブルにつっぷした。目だけ上げて木下さんをにらむ。
「アンタってなんでそういうことするかなあ!」
三白眼を作って真剣に立腹しても、
「なんのことだよひょうきん者だなあ、お前は」
木下さんはすっとぼけてへらへら笑うだけ。
絶対! 絶対木下さんを参りましたって言わせてやるんだ!
まずはそのマリモモドキを、ほんっとーにバスケットボールの大きさに育ててやる!
それでだな、それまでに、俺は大人になって木下さんを見返してやる。木下さんに勝つ。優位に立つ! 倒す!
みてろよ。その暁にはざまあみろって高笑いしてやるんだからっ。