ふるふる図書館


第五部

第九話 花見は誰と?



 桜花高校は、さまざまな桜の樹木が植えられている。染井吉野や枝垂桜、山桜。河津桜に八重桜。卒業式前につぼみをほころばせるものもあった。
「昔から、このあたりの住人には、手軽なお花見スポットなのよね」
 めっきりやわらかみを帯びてきた青い空が見えるサンルームで、七瀬玖理子が、ティーカップにローズヒップティーのおかわりをつぎたしながら笑った。
 卒業式を翌日にひかえた昼下がりのことだ。
「あなたたちも行ってごらんなさいな。卒業前に、心ゆくまで堪能してみたら?」
 春日玲と森川知世はひとくちのってみることにした。真夜中に、校庭へとこっそりとしのびこむ計画だ。小さいころから桜花高校の桜に触れている知世は、案内役に適任だ。
「夜桜見物? あら楽しそう。まだ冷えるから、風邪をひかないようにしてね。体をあたためるものを持っていかなくちゃ」
「上着とか、毛布とか?」
 首をかしげる知世に、彼女は邪気なく嫣然と笑みを返した。
「それもいいけど、これはどう?」
「お、伯母さんっ! 学校で酒盛りしろっての? 卒業式を待つまでもなく、高校からいなくなれちゃうよっ」
 どんとテーブルに置かれたびんの群れを前に、知世はおろおろ制止した。
「森川君は、お酒なんて飲まないでしょう」
 玲がたずねると、女主人はよくはった眼をさらにみはってあら、とつぶやいた。
「知らなかったの、玲君。一緒に飲んだことないのね。
 この子は強いってもんじゃないわよ。うちの家系は誰も弱くはないけど、いちばんいけるのは知世ちゃんね。ざるでうわばみで底なしの酒豪。記憶をなくしたことだってないもの。普段はこんなにぽやぽやしているのに、飲むと頭がぐんぐん冴えて、思考が明瞭になるらしいわ。たちが悪いのはね、『酔ってる』って自分で言うときに限って、まったくのしらふだってことよ。気をつけたほうがいいわ。まったく小悪魔よね」
「わあ、伯母さん、ストップストップ!」
 またもや知世は、あわてふためいた。玲はそ知らぬ顔で、そうなんですか、人は見かけによらないですね、とさも感心したふりをしてみせた。
「じゃあ、夜にまた。楽しみにしているよ」
 過剰なほど涼やかに、玲は七瀬邸をあとにした。不穏な気配を察したようで、春も近いというのに知世はひきつった笑みを凍らせていた。

 夜気は、冬のものとはあきらかに違って、ふわりとぬるくなっている。沈丁花の香りがほのかにまじっていた。
 知世は、校門前に先に到着していた。殊勝な心がけだ。少しでも、玲からの矛先を減らそうとあがく作戦か。腹をくくってしまったらしく、ふっきれたような笑顔がやけくそぎみだ。
「よし、じゃあ、入ろうか。裏の生垣にもぐりこめる穴があるんだ」
 知世のてびきで、満開の山桜の下に陣取ることができた。
「卒業するまでに、もう一度、ここで桜の花を見ることができるなんてなあ」
 知世が花を見上げた。あえかな明かりがぼんやりと透けて、花びらがそれ自体発光しているように見える。早くも花びらが落ちてきて、周囲にはなやかさを添えた。
 まだ肌寒さが残る季節に、無人の高校にわざわざ忍びこむ、酔狂な人間は誰もいないようだ。あたりを静けさが支配している。
 夜の高校は来たことがなく、新鮮に映った。三年間通い慣れた、見慣れた場所のはずなのに。もっとも、玲はまじめにこまめに出席していたわけではないが。
 知世が甲斐甲斐しく、持ってきた荷物をほどいた。魔法瓶の水筒に入れたお茶や、お菓子を取り出す。
「ささ、食べよう食べよう」
「お前、一所懸命そらそうとしているだろ」
「ん? 何を?」
 知世は、顔中余すところなく笑みを浮かべている。ほほういい度胸だ。ごほうびに、小細工を弄さないことにした。長びかせないのが武士の情け。せめてひと思いにとどめをさしてやろう。
「山城迪香(やましろみちか)さんと会食した夜のことだよ。酔って寝たふりをしながらずっと、おれたちの話を聞いていたんだろう。ごまかしや嘘はためにならんぞ」
 冷ややかに宣告すると、知世はすっかり観念したようだった。
「ごめん」
 小さくつぶやいてうつむいた。
「なぜ謝るんだ?」
「えと、それは……」
「説明できないなら謝るな、価値が減る」
 しばらく黙りこんでから思い切ったように、知世が口をひらいた。
「でも、薄々かんづいてたよ。玲の家のこと。前にホテルで会った人、玲のお父さんなんだってすぐにわかった。どことなく、似てたから……」
「ふうん。だから、あんなこと言ったんだ? うちの家族も円満じゃないですなんて。気遣いのつもりだったのか?」
 知世は、ますますこうべを垂れた。色の淡い髪が顔を隠し、周囲の暗さとあいまって、表情が見えない。
 と。知世はポケットをさぐり、取り出したものを玲の鼻先に勢いよくつきつけた。
「じゃあっ、これは何だよ、これは!」
 それは、レースにふちどられたマーガレット模様の桃色のハンカチだった。
「これの意味するところ、わかるよな?
 おれとお前は、昔に出会っていたんだよ! それをおぼえていながら黙っているなんて。そうだよ、おれは女の子の格好してたよ。そこに触れまいとするやさしさか? おれは腫れものか? 塩を塗れない傷口か?」
 窮鼠が、猫どころか虎を噛むつもりでいるらしい。
「だったら、高校で再会したとき、『やあ八年前にお会いしましたね。あのとききみは女の子の服を着ていましたから、男子校でお目にかかれるとは思いませんでしたよ』とでも挨拶すればよかったのか?」
 玲が落ち着きはらってただすと、知世は他愛なくあっけなくつまった。
「うっ、それは、やだ……」
 やれやれ、有効な反撃でも切り札でもないじゃないか。玲はふんと鼻を鳴らした。
「それにしても、お前、おぼえていたんだな、おれと会ったこと。てっきり忘れてるかと思ってたが」
 きっと知世は玲を睨み据えた。だが、眼がやたらに大きいし、きついカーブを描くまつげも濃くて長いなと、今さらながらのんきに玲が観察する余裕をそこなうものではない。
「忘らいでか! あのなあ。これは伯母さんにもらった大事なものだったんだぞ。なくしてショックだったんだ。そうそうあきらめられるか」
「そんなに大事だったら、無造作に血なんて拭こうとするな。かんたんに落ちないんだ、そんなこともわからなかったのか」
「だって、ほかに拭くものがなかったんだもの、しかたないじゃないか。お前のこと、あのままほうってなんかおけなかったんだもん!」
 正面きって真顔で言われ、玲は、急に言うべきことばが見つからなくなった。
「これもらうぞ」
「はっ? だめだよ、大事なものだって言ったばかりだろ」
「だから欲しいにきまってるだろうが」
「お前のものはおれのものって、ジャイアンかよ。もうちょっと悪びれようよ!」
「どの口がそういうことを言えるのかな。このおれに、煮え湯をたっぷり飲ませておいて」
「きょ、脅迫?」
 おびえて身をすくませる知世に、とっておきとびっきりの笑顔を向けた。
「人聞きの悪い。そんな口のきき方は似合わんぞ。そうだな、おれがちょっと預かっておくよ。それならいいだろう?」
「いつまで?」
「さあね」
「そっか……」
 知世は、突如しんみりした吐息をついた。
「じゃあ、この先もおれに会うつもりがあるってことだね。だっていつかは返してくれるんだろ、踏み倒さずに。お前はおれとの約束を破らないもんな。……そっか」
 体育座りをして立てた両ひざにあごをうずめ、知世は斜め下からすくいあげるように玲を見てから、つと視線を落とした。
「お前って、卒業したら、もう二度とおれに会わないような気がしてた。なんとなくだけどさ。住む世界が違いすぎるっていうのかなあ」
 ほほう、なかなか鋭いところをつくものだ。知世のくせにちょこざいな。
「お前にはいろいろ助けてもらったし、感謝してる。同好会で、すごく、濃い時間をすごすことができたよ。瑞樹君たちもまじえて、いっぱい話して。ほんとにたくさん、一緒にいたよね。こんな充実した時間が持てたのも、みんなお前のおかげだよ。
 もうこれっきりお別れっていうんじゃ、ちょっとさびしいかもなって。ちょっとそう思ってたんだ。ちょっとだけだけどさ。だから。いつか、返しに来いよ。絶対に。
 えへ、何言ってんだか、おれ。えっと、そうだ、お茶でも飲もうか。さめちゃうよ」

 知世が七瀬邸に帰るのに、玲も同行した。
 別に送ってくれなくても、女の子じゃないんだからさ、と逆らうこともなく従順に、知世は玲と並んで月夜の道を進んだ。ゆっくりゆっくり。玲も、あえて、歩調を速めなかった。
 高校からほど近いから、角を曲がっただけですぐに七瀬の家が見える。名残惜しそうに知世はことさらペースを落とした。
「あれ? なんだろ?」
 知世は立ち止まった。自分の住居の前に、トラックが停まっていたのだ。引越し用の。
「ああ。あれはおれの荷物」
「……へ?」
「これから七瀬さんちに下宿するから」
「なっ! なんで、こともなげに言うわけ、今ごろになって? 伯母さんもひどいや、そんな大事なこと黙ってるなんて! 貝のようにぴったり口を閉ざしてるなんて」
 額をおさえて、ふらつく足でよろよろよろける知世。してやったり。
 くつくつ笑う玲に、知世は憎々しげに言い捨てた。
「せいぜい、かぶった猫が脱げないように気をつけるんだな。伯母さんと母さんの前で」
 知世の母は離婚したのち、この七瀬に戻っている(とたんにいきいきして、みるまに十歳も二十歳も若返ったとは知世の談。童顔家系のくせに、さらにそんなになっていいのか)。
 ゆえに知世は森川家に帰る理由がなくなり、ここでの生活を続行させることにした。母方の戸籍に入り、高校を卒業したら正式に七瀬の苗字を名乗る予定だ。
「このおれに演技の忠告をするとは、釈迦に説法もいいところだな。
 で、お前のことはこれからなんと呼べばいいんだ? もう森川ではなくなるわけだし。苗字を呼ぶにしても、七瀬という名の人間は、この家に少なくとも三人いるから、混乱をきたすもとになるわけだし」
「いいよ、もう。知世とでもなんとでも、お呼びくださいな、お好きなように」
 蛙の面に何とやらの玲の態度についていけないようで、すてばちな態度だ。むろんそこにつけこむつもりの玲である。
 彼はあの日、玲に生まれてはじめて手をさしのべた存在の「ともよ」ちゃん、なのだから。
「うーん。こういうのも家族、なのかなあ。やっぱり……」
「何か言ったか?」
 知世のつぶやきはしっかり耳にとどいたのに、しらばっくれて玲は問うた。
「なーんでもなーいよーだ!」
 知世はあっかんべをして、コートの裾をひるがえした。
「だいぶ寒いし、帰ろっか、うちに」
「そうだな、帰るとするか」
 七瀬家に向かって駆け出す知世に、玲もつづいた。
 ふたりして、全力疾走してたったひとつの同じ場所をめざした。あまりの真剣さに、かるく体をぶっつけ合い、こづき合いして、そろって笑い声を上げながら。
 冷たい夜の中を走りぬける。
 明るくあたたかな光のもとへと。
 自分の家へと。自分たちの家へと。ようやく手に入れた、帰る場所へと。

20050621
PREV

↑ PAGE TOP