ふるふる図書館


第五部

第八話 バレンタインは同級生と



 冬の夕暮れ、自宅のドアチャイムが鳴った。
 セールスかな。「どちらさまですか」と多少おざなりにインターフォンを取った綾小路史緒の声に応じたのは、意外な人物だった。
「あの、森川といいます。綾小路那臣君の同級生です」
 史緒は、泡を食うどころかそれこそ口から吹かんばかりになってモニター画面を確認した。
「那臣君は、いらっしゃいますか」
 兄のことをそんなふうに呼ぶなんて、本人が聞いたら幸福感で昏倒してしまうにちがいない。さすがに、十八の若いみそらではかなくなるのはあまりに気の毒というものだ。応対に出たのが自分でよかった、神さま心からありがとう。
 少々お待ちください、と告げるのももどかしく、史緒はすぐさまドアをひらいた。
「あ、史緒君。こんばんは」
 まぎれもなく、森川知世がちゃんとそこに立っていた。水色のコートに、紺のチェックのマフラー。そんな装いが、寒い中ピンク色に染まった白皙によく映えている。良家の子弟のような身ごしらえだ。
「こんばんは、先輩。めずらしいですね、うちにいらっしゃるだなんて」
「うん。ちょっと、約束があったから」
 知世がさげている紙バッグから、中身がちらりと見えた。瞬間、史緒の心臓がどんどんどんと、胸腔をはげしく連打しはじめた。ええい、乱れるな脈拍。速まるな鼓動。取り乱すな自分。
「兄を呼んできますから、入って待っていてください」
 高校三年生ともなると、この時期はすでに単位も取り終え、学校に行くこともない。だから兄は家にいる。外出するときには肌身離さない伊達めがねもかけずにくつろいでいる。すでに推薦で志望校への入学も決定しているため、のびやかなものだ。
 史緒はリビングへ入り、深呼吸を三回し、おごそかに告げた。
「兄さん。今からぼくの言うことを落ち着いて聞いて」
「もったいぶってどうした、愚弟よ。この世には、あわてるべきことなど何もないのだぞ」
 悟りきった哲人か。そんな悠然としたかまえがいつまでもつやら。
「あのね。森川先輩が来てるんだ。兄さんに会いに。今、玄関で待ってもらってる」
「そそそそそうなのか?」
 どもりすぎだ。ついさっきまでのしかつめ顔はどうしたよ、あっさりかなぐり捨てちゃって。もっとなりふりかまおうよ。
 そんな史緒の願いもむなしく、はなはだぎくしゃくした挙措で、兄は去っていった。油が切れたロボットだってもっとなめらかに動くだろう。いったいだいじょうぶなのか、一抹どころではきかない不安にかりたてられる。
 今日は、二月十四日。バレンタインデイ。本当にあの約束を果たしにきたのか、森川知世は。
 あのとき、しこたま酔っぱらっているように見えたのに、おぼえていたのか。さすがはあの森川知世、たとえアルコールが入っても、どこまでも律儀で義理がたいらしい。

「まあ、適当にくつろぎたまえ」
 そう言うあなたの声が、どこをとってもくつろいでいないんですけど、兄さん。
 史緒は、高まる胸をおさえつつ、閉ざされた兄の部屋の前にいた。もし、兄のなけなしの理性のたががすっぱりはじけとんで、知世の身に危険が迫ったら、すぐに助けに入れるように臨戦態勢を完璧にととのえ、一分の抜かりなくスタンバイしている。
「何か飲むかね?」
「いいよ、おかまいなく。これ渡しにきただけだからさ。はい」
「す、すまない……」
「よーくありがたみを噛みしめて食べろよ。特別に作ったんだから」
「そ、そうか……」
「じーん」という擬態語を書いて背景に貼りつけたいくらい、兄の声音は露骨に感動にうちふるえている。もらったチョコレートは、しばらく神棚にそなえておくんじゃなかろうか。もっとも、こんなこじゃれたモダンな豪邸に、神棚なんてないけどさ。
 だが、次の知世の発言は、氷水を頭からもろにぶっかけるようなものだった。
「来年からは、彼女からもらえよ」
「えっ」
「大学に行ったら、いろいろおつきあいも増えるんだろうしさ」
 あわわわ。狼狽のきわみの史緒にかまわず(当然だ)、罪つくりなほどの無邪気っぷりだ。
「しかしっ」
 こたえる兄のほうは、思わず知らず同情をもよおすくらいにせっぱつまっている。
「ん?」
「わたしは、来年も再来年も、きみからもらいたいんだよ! ずっと!」
 どわーっ。言い切った。とうとう言い切っちゃったよ、兄さん! バレンタインなのに、もらった側が告白しちゃったよ!
 しばらく、静寂があたりを支配した。それぞれが、それぞれの思いをかかえて、てんでにだんまりをとおしている。耳がわんわんするような静けさ。
「そっか……」
 嘆息まじりの、知世のぽつんとしたつぶやきが、沈黙のとばりをやぶった。
「だけどね。それは、男子校にいたからだよ。女の子がいないから惑わされてただけ。おれは、女の子のかわりだったんだ。本来の気持ちじゃないよ。だから、お前は清く正しい男女交際の道を邁進するほうがいいんだ」
「そんなことは……」
「もしもだよ、万が一、おれたちがそういう関係になったとしても、おれ、ほんものの女の子にはかなわないから。いつか捨てられるよ。こう見えてもけっこうプライド高いからさ、そんなのはまっぴらだ。将来、おれだっておっさんになるんだよ、いいのか?」
 いやあ、とてもそうは見えないですけど。
「もしかして、傷ついたのか……? 迷惑だったのか」
 ためらいがちな問いかけがドアごしにもれてくる。
「何言ってるんだよ。そんなこと気にするなんて、ちっともお前らしくない」
 知世が笑った。
「そうか、そうだな」
 どちらも相手に「ごめん」と謝ることはなかった。しかしどちらの口調も互いに詫びているように、史緒の耳には聞こえた。

 史緒がその場を離れてリビングの方へ行くと、どえらく陽気な声がした。
 あちゃー、と史緒の口からつぶやきがもれた。綾小路真琴がいたのである。史緒と那臣の継父というべきか義父というのが正しいのか。継子に対する愛情は人一倍どころか十倍も百倍もあるようだが、この微妙な空気が読めるかどうかは、はなはだあやしい。
 はたして。
 兄と知世がふたりして階段を降りてきた足音を聞きつけ。 「おおっ、お友達が来ていたようだね! 今日はバレンタインだからな、いやはや那臣も隅に置けないなあ!」
 喜色満面、いそいそとふたりのもとへすっとんでいく。もう一度、史緒はあちゃーとうなだれた。
「おじゃましていま……」
 常に礼儀正しいはずの知世の挨拶は、なぜか尻切れとんぼになった。あ、そうか、失念していたが、義父は一応著名人なのだった。ましてや、同じ演劇の世界を志す知世だ、顔を見知っていても少しもおかしくはない。
 史緒は、首をつき出して三人の会見をのぞいてみた。知世は、よほど仰天したのか大きな眼を目尻が裂けそうなほどさらにまんまるにして、まばたきも忘れてぽかんとしている。
「やあ、森川知世君だったのか。那臣の恋人は」
「ち、ちち、違いますよ、戯ればかり言わないでください、お父さん!」
「おとうさん……?」
「あ、ああ、そうなのだ、血のつながりはないのだが。母の再婚相手だから」
「ふうん……?」
「そうか、恋人じゃないのか、だよなあ。あいつが黙っちゃいないだろうて」
 出会い頭に爆弾を投げつけられた兄は、何とか話題を変えようという算段ばかりにかかりきり、義父が発した「あいつ」とは誰なのかという疑問を抱く余地はなかったようだ。
「お父さん、以前森川知世のことをほめていたじゃありませんか。あの舞台を見て」
「そうなんだよ。かねがね、きちんと話がしたいと思っていたよ、森川君。まあいろいろ妨害されるので果たせなかったんだがね。わたしは、舞台の演出家をやっているんだ。夏にきみの発表も見させてもらったよ」
「あっ、はいっ、ありがとうございます!」
 知世のおももちに、さっと緊張が走った。
「そこでだ。きみ、わたしのもとに来ないかね?」
「はい?」
「気に入ったんだよ、きみの舞台もさることながら、きみ自身のことがね」
「でも、あの舞台はっ。脚本家と出演者がものすごくよかったんです、才能があって。おれは特に何も……」
「ああ、その通りだな」
 義父はいともあっさりとうなずいた。
「あのふたりは高校生離れしすぎだな。わたしは、きみのような子を育ててみたいのだよ。素直でふつうっぽくて柔順で純真で純情でまっすぐで、こちらの言うことをなんでも吸収しそうな子をね」
 その物言いは、あやしい香りをむせかえるほどふんぷんとまきちらしているように感じたが、たぶん気のせいだきっと気のせいだ。メイビー、気のせいかも知れない。マストビー、気のせいに違いない。
 そーだ、実の……じゃないけど仮にも、一応、とりあえずそれとなく父親なんだから、疑うなんてどうかしているぞ、綾小路史緒。
 マインドコントロールにがむしゃらになるあまり、ついうっかり、知世と義父の会話をいくつか聞き逃した。
「きみは、もっと自信を持つべきだな。だいたい、あのあくの強い、ひとくせもふたくせもある連中をまとめてひっぱって協力しあうようにしたのはきみだろ、森川君。常人にできるわざじゃないよ」
「それは、そうですけど」
 知世のあいづちも、さりげなくひどい。
「何をぼやぼやためらっているのだ、森川知世。これはいい機会だと思うが」
 じれったがったのか、兄が後押しした。
「え、なんで。生徒会の権力をかさに着て、あんなにじゃましていたじゃないか、おれの演劇活動をさ」
 ごくごくさらりとさっぱりとナチュラルに言い、しまったという形相で知世は口をおさえた。義父の前をはばかったのだろう。
 時すでに遅し。兄はたちまち真っ赤になった。さもあろう、子供じみたふるまいも、嫉妬も、どちらも見苦しいこと限りない。恥じ入る自覚があるだけまだまともだったとよろこぶべきか。
「そ、それは……」
 義父を前にしているせいで、まじめくさった態度が礎のはずの兄もかたなしである。
「ほほう、そんな過激な行動に走っていたのか、那臣」
 すこぶる愉快そうな義父。
「ですから、その……森川知世が心配で……あの春日玲というのは、札つきでしたし」
 汗をかきかき返答に窮す義理の息子に、片頬で笑み、ふむふむとうなずいた。
「いやあ、青春ってすばらしいなあ。ますます、是が非でも森川君を手もとに置きたくなったよ。なあ、那臣もそうだろう?」
「是が非でも」を辞書でひくと、「善悪にかかわらず」と記載されている。まさしく義父の場合にどんぴしゃりな感じで、史緒はぶるりとふるえおののいた。
「でもおれ、進路決めてしまいましたし。演劇学校なんですけど」
 知世が学校名を告げると、義父の瞳がきらきらと、この年齢にあるまじき少年のそれのごときかがやきを放った。
「おお、その学校はわたしも非常勤講師として招かれている。運命を感じるな! これからもよろしくたのむよ、森川君。わたしが人生においてもっとも忌むべきものとするのは、退屈なのだ。しかし、これからずっと、もっともっと楽しくなりそうだな!」
 夢ふくらませて精彩に富む人間は、生き生きとうるわしい。自分の理想に向かって突き進む人間は、輝かしくまばゆい。だがしかし、史緒は壁に手をついて呻吟せずにいられなかった。
 ああ神さま。もうついていけません。ぼくはいったいどうしたら?

20050621
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