ふるふる図書館


第五部

第一話 誕生祝いは父と



「おや、玲じゃないか。ずいぶん久しぶりだな」
 カウンターからおどろき顔を向けてくるマスターに、かるい調子で久闊を叙した。
「変わらないね、マスターも店も」
「オーダーは、いつものでいいのかい?」
 うなずきを返して、春日玲(かすがれい)はボックス席に着いた。
 待ち人はまだ来ていなかったが、運ばれてきたグラスをさっさと傾けた。
 静かに流れるジャズ、ほとんど客がいない落ち着いた店内、ほの暗い照明、手の中のグラスで涼しい音をたてる氷。
 そういった雰囲気すべてが、いやおうなしに玲を過去の玲にひきもどす。
 夜の街やおとなの間を自由に徘徊し、年齢も住所も知られず、「玲」という名でだけ知れ渡っていたころの。
「玲」
 声をかけられてふりかえると、待ち合わせの相手がいた。
「先生」
 当時の呼び名が無意識に口をついた。
 綾小路真琴(あやのこうじまこと)は、玲と向かい合わせに席を取った。
「もうひとりではじめているのか」
「あなたが時間を守らないからですよ。呼び出した張本人が遅れてくるなんて、しかもこのぼくを待たせるなんて言語道断もはなはだしいです」
 そんな軽口の応酬も、当時はよくやったものだ。
「なんだ、せっかく乾杯しようと思っていたのに」
 少しも残念そうでない声音で笑って、マスターにレミーマルタンを注文した。
「乾杯って、何にです?」
「まずは、演劇発表会が無事に終わったことに。もうひとつは、息子の誕生日にだ。一日早いがまあいいだろう」
「誕生日……?」
 玲ははじめて耳にした異国語を咀嚼するように、片眉をひそめてくりかえした。怪訝さや胡乱さや戸惑いしかわき起こらない。
「そんなにおどろくこともなかろう」
「そのまめまめしさが、もてる秘訣なんだと感じ入っただけです」
 玲はなにげないふりでグラスを手にしたが、たったの一分前に空にしたばかりだということを思い出し、所在なくまつげを伏せ、無意味にからからとゆらして氷を見つめた。
 単刀直入にぶつけるつもりだった質問が、やすやすと封じられてしまった。たかが「誕生日」の一語で。たやすく相手に主導権をにぎられるなど、めったにないことなのに。なんたるざまか。
 テーブルに両肘をついた父が、そんな玲をじっと観察している気配を感じた。
 マスターが、グラスをふたつ置いて去り、密室に近い空間にふたりになった。
「乾杯しようか。玲、誕生日、おめでとう」
 かちんと、ガラスが触れ合う澄んだ音がひびいた。
「ほら、わざわざ店まで行ってケーキも買ってきたんだ。キャンドルも十八本。ただ遅れてきたわけじゃない」
 取り出した箱をひらくと、できの悪い冗談のように、由緒正しい丸型のバースデイケーキがおさまっていた。いちごと生クリームと砂糖菓子で飾りつけられた上面に、チョコレートソースでくっきりと、「Happy Birthday Rei」の文字。
 まるで幼稚園児のバースデイパーティーだ。きらきら光る三角帽子まで登場しかねない。
 まったく。なぜ、こんなリアクションの選択に困るようなことをするのか。新手のいやがらせに間違いない、と玲は憮然としつつも確信を深めた。
 肉親に誕生日を祝われたことなど一度たりとてなかったのだ。どう反応しろというのか。
「そうしていると、お前は実によく似ているな、小枝(さえ)に」
 チープでカラフルなろうそくに火をともした父がしみじみつぶやいた。
「あの日の夕方、学校で、横顔をひと目見たときからそう思った。玲というのも、小枝がよく話していた名前だ。もし子供を持つことがあれば、男でも女でも、そう名づけたいと言っていた。小枝が妊娠するとは想像もしてなかったから(どじを踏んだものだと玲は思う)、聞き流していたがな。お前の名前を聞いてまっさきに小枝のことが浮かんだよ。
 息子と気づかずともお前にひかれたのは、そういうことだったんだろうなあ。小枝が、お前にひきあわせてくれたんだ」
 つまり、おとなをたぶらかす小悪魔の玲ではなく、かつて愛した人物のおもかげを持つ玲を求めていたということか。
「玲」という本名を名乗りつづけていたのは、どこかに父に気づいてほしいという意識があったからではないだろうか。
 父に近づき、陥落させてやろうという目的で芝居の勉強をはじめたときも、父とつながっているような気持ちになってはいなかっただろうか。
 これらの考えをいともあっさりすんなり納得してしまうとは、我ながらずいぶんとやきがまわったものとみえる。
 小さくためいきをついて、玲はばかげたケーキを指さした。
「とにかく食べることにしましょう。恥ずかしくてしかたない」
「そうだな、その前に歌わなくては。誕生日祝いというのは、そういうものだろう」
「ここでですか」
「むろんだ。清聴するんだぞ。そのあと、ろうそくの炎を一息で吹き消す。いいな」
「はいはい。御意のままに」
 一連の様式をすませたあとで味わったケーキは、ごくごくありふれたスポンジケーキだったが、玲には、今まで食べたどんな高級なものよりも甘い気がした。
「墓参りには行くのか?」
 父がごくさりげなさそうに、ずばり核心をついた。玲はかぶりを振った。
「そうだな、わたしも行かないし。彼女はそんなことにこだわらないやつだ。夢枕に立たれたこともいまだにない」
 だったら聞くな。
「今、少し期待しただろ? 行かなきゃだめだと諭されるとか。一緒に行こうと誘われるとか」
「いーえ。まったく思いつきもしませんでしたけど?」
 すまし返って、紙ナプキンで口もとをぬぐった。
「はっはっは、可愛くない息子だな」
「あなたに可愛いと思われたら、体がいくつあってもたりないでしょうね」
「お前をわたしのもとに呼び寄せるのを諦めたのに、そんな言い方はないだろう」
 重大なことをさりげなくなにげなくするりと言い渡され、玲の手がとまった。まさに、それこそが今夜玲が知りたかったことだった。
 今年のあずき相場でも話題にするかのような口調で、おごそかさも重々しさもいちじるしく欠いているが、とにかく。玲は用心深く慎重に問い返した。
「本当、ですか」
「残念ながら本当だ」
「そう、ですか。まあ当然ですね。これでぼくも安心です。人身御供はまっぴらごめんですからね」
「なるほどねえ、父親よりも森川知世(もりかわともよ)君を選ぶってわけだ。わたしも、彼はいい子だと思うよ。ふむ、親子でさやあてというのもなかなかドラマティックで楽しそうだな」
 やれやれ、何をおちゃめなことをほざくか、この色魔中年は。いったいいくつだ、不惑をとっくのとうにすぎてるはずだろうに。
 恬として恥じ入るようすも見せない実父に、とことんあきれて口をひらく気力も失せる。
「ほら、これを見てごらん」
 父が、一葉の写真を取り出して示した。
 もろもろの事情と経緯から、自分が被写体になることを注意深く避けてきたが、学校内とあってはさすがにむずかしい。おおかた、秘密厳守で依頼を請け負う写真部の凄腕、妹尾司(せのおつかさ)あたりからリークされたものだろう。
 制服姿の、玲と知世が写っていた。高校の中庭にて他愛もないことをしゃべっていたところを撮られたものとみえる。知世はいつものふぬけ顔だ。
 父が意味深長な口ぶりをつくった。
「お前が、こんなにやわらかい表情をするとはね。まるで別人だな。いったい誰の影響なのか、聞くだけ野暮かな?」
 意外だったのは、玲も同様だった。しかしそんな心境を気取られるようなまねをして、父をよろこばせるつもりはまったくないので、ことさら冷たく知らん顔を装う。
「まあ、玲の成長を、小枝も草葉の陰でよろこんでるさ」
 この締めくくりは反則じゃないだろうか。いかなることばも封じる禁じ手だ。
 春日玲が生まれた日は、同時に生母の春日小枝が亡くなった日でもあるのだから。

 父が、タクシーで春日家まで送ってくれた。
 しかし、おろされたのは、どう見ても別の場所だった。万緑の季節の夜気に乗って、花々の香りが強くただよってくる。
 玲は、父を乗せて走り去るタクシーの赤いテールランプを睨みつけた。
 そこは、森川知世の下宿先の前だったからだ。
 玲が、知世の身近にいることに迷いがあるのを見透かしているといわんばかりだ。それでわが子の背中を押してやったのだと笑う姿までまぶたに浮かぶ。まったくお節介だったらありゃしない。
 それでも、送られた塩はとりあえず無駄にせず、有意義に有益に活用させてもらうことにした。得にもならない見栄と意地ははらないのがモットーだ。

「知世ちゃん、お客さまよ」
 七瀬玖理子(ななせくりこ)が出て行くのといれかわりに自室に入ってきた玲を見るなり、パジャマ姿の知世は盛大に眉をしかめた。
「夜分に何してるんだよ、こんなところで」
「スキップやなわとびでもしているように見えるか」
「そーゆーことは聞いてないだろーがっ。体裁と外づらだけはこの上なくすばらしいお前にしては珍しいって言ってるの、こんな時分に来るなんてさ。何か用なのか?」
「ここに泊まる。七瀬さんにはすでに話をつけてある」
「どーしてかってにそういうこと決めるかなあ。ほんと、伯母さんの前では完全無欠のさわやか青少年なんだから。猫っかぶりめ」
 知世は太い黒ぶちめがねをかけていた。ごつくて大きく、小づくりな顔に不似合いだ。
「なんだこのおどけたひょうきんめがねは」
 玲がひょいとめがねを奪ったので、知世はむっとした。
 左右の視力が若干違うので、裸眼で見つめるときは、顔を少し横に向けてすがめるのがくせだ。流し目とも色目とも、ガンをとばすともメンチを切るともとれるしぐさが、よかれ悪しかれ、おおいに誤解を受けてきたことは想像にかたくない。
 日ごろは横目を使わないよう注意しているらしいが、今はどうも気がゆるみきっている。
 いつもはストレートな髪が、ゆるく波打っていた。まだ湿り気を帯びた洗い髪だ。もう寝るところだったと見える。まだ十時前だというのに、小学生か。
「どこ行ってきたんだよ。酒と煙草の匂いがするぞ」
 小学生のくせにきびしく叱責してきたので、相手をするのも煩雑で、玲はめがねをぽいと放り出し、樫材の頑丈なベッドに横になった。
「あ、無視するなよ。おれのベッド取る気か」
「客だからな」
「招かざる客のくせに。ふとん敷くから、そっちで寝なよ」
 今夜は、力いっぱいじゃけんでつっけんどんだ。知世ごときが束になってかかってこようが屁でもないが、うるさいのはいささか閉口する。狸寝入りを決めこんだ。寝具からただよう清潔なラベンダーの香りが、安らかな眠りを誘いかけてくる。
 知世がためいきをつき、机に向かう気配がした。何やらごそごそやっている。うとうとしては彼の存在を背中で感じ、またうつらうつらすることを幾度かくりかえした。
 階下から、十二時を告げるボンボン時計の音がかすかに聞こえた。
「玲? 起きてるんだろう?」
 耳もとで、知世の声がした。片目だけうすくあけたら、小さな包みを手に乗せられた。
「ほら。誕生日プレゼント。用意し終わる前にお前が来るんだもん、あせっちゃったよ。少しは気をきかせろよな。会ったらまっさきに渡そうと思ってたんだから」
 おぼえていたのか、頭と記憶力が群を抜いて悪いくせに。
 リボンを巻いた包みから、ふわりとした芳香が鼻腔をくすぐった。知世の寝具と同じにおいがする。おそらく、ハーブをまぜこんだ手づくりのせっけんか、におい袋だろう。
 胸いっぱいに吸いこむと、猛烈に眠たくなった。酔ってるんだろうか? いったい、何に?
「あれ? 寝ちゃってるのかな? おーい起きろ。せめて礼を言え」
 知世の呼びかけに応えず、プレゼントを握ったまま、玲の意識はうすれていった。
 そうだ、目がさめたら、知世を墓参りにつきあわせよう。帰りには、何かおごらせよう。クレープか、ソフトクリームか。
 それから、どこに行こうか、映画なんて退屈なだけだから、ビリヤードでいいか。どうせこいつ、まったくできないに決まってるんだ、一からきびしく指導してやる。
 年に一度、どんなわがままも許される日のはずだ。何しろ、特別な日なのだから。
 そうか、そう、これが誕生日というやつなんだ……。

20050621
PREV

↑ PAGE TOP