ふるふる図書館


第一部

第一話 櫻の園



 ときは、一九九〇年代に入ったころ。
 ここは、関東某所に所在する男子校。名を桜花(おうか)高校という。
 校門から校舎まで、ずらりと桜並木がつづいている。花は今がさかりで、その名に恥じないみごとな佇まいを誇っていた。
 森川知世(もりかわともよ)は、優雅に花を愛でる心境ではなかった。肩を怒らせ、足音高く鼻息荒く歩いていると、春日玲(かすがれい)に出くわした。同じく三年生になったばかりの生徒だ。
「玲、聞いてくれ」
 すぐさま知世は訴えた。だがめったなことでは動じないのが玲である。悔し涙にくれんばかりの知世にも、涼しい顔をくずさない。
「申請を却下されたんだろう」
 忌ま忌ましいほど落ち着きはらって先回りする。
「ああそうさ。即刻却下されたともさ。ちくしょう、生徒会長め」
 演劇同好会を部として認可されたし、という真摯な申請を、けんもほろろにはねられたところだったので、知世は相当おかんむりだった。
 なにしろ認可がおりないと、せっかくの新年度だというのに、新入生の勧誘もままならない。
 生徒会承認済みの判子がないポスターはすみやかに撤去され、びら配りさえも取りしまりの対象となるのだ。
「そもそも、おれはやつに票を投じなかったぞ。それなのに、まんまと生徒会長になりおおせて、あいつめ、どこまでおれのじゃまをする気だ。
 ええい、もう許せんっ。今にぎゃふんと言わせてやる」
 知世はこぶしを振り振り、じたんだ踏み踏み、この場にいない生徒会長を痛罵した。
 いつもながらの光景である。生徒会長はいつでも知世の癪のたねだった。
 学校指定のローファーで、ぐりぐり地面を踏みにじる知世と、それをひややかに眺める玲。見下ろされるかたちになるのは、知世にとって悔しいことに、身長にかなりのひらきがあるせいだ。
「今ちょうど放課後だ、新入生を直接スカウトしに行けよ」
 冷静そのものの提案に、知世はたちまちしゅんとうなだれた。
「誰か入ってくれるかな」
 先ほどまでの勢いはどこへやら、すっかり弱気になってしまう。
「がんばってみるんだな。ひとりくらい何とかなるだろう」
 まごころのこもった激励とはほど遠い。知世はどんより顔をくもらせて、うらめしそうに玲を見た。
「気楽に言ってくれるよ。ひとごとだと思って。そんな簡単にいけば苦労しないさ。ひとりでも勧誘して入部させてくれたら、明日のおひるをおごったっていいよ」
 玲はあごをそらせて鼻を鳴らした。
「ふふん。ずいぶん甘く見てくれるじゃないか。ここで待っているがいい」
 言い捨てて、余裕しゃくしゃくで歩いていく。
 玲の姿を認めた過半数の生徒が、ぎょっとしたように視線を逸らす。冷静沈着、傲岸不遜、傍若無人の玲はかなりの有名人なのだった。
 ほどなく、玲はもどってきた。
「連れてきたぞ」
「えっもう?」
「こちらは一年一組の飛鳥瑞樹(あすかみずき)君。話を聴いてくれるそうだ」
 知世は口をあんぐりと開けてしまった。はたと我に返って口を閉じ、玲をつついてささやいた。
「どうやって連れてきたんだ」
「まあ人徳だな」
 玲はすましている。あえて追及しないことにした。そのほうが賢明だと、経験上学んでいるからである。
 知世は、飛鳥瑞樹と改めて向かいあった。だが顔を直視するのはむずかしかった。
 比類ないほどきれいな顔だちをしているのだ。周囲に咲き誇る桜までが、かがやきを増して見えた。
 ちなみにつけくわえておくと、玲も眉目秀麗なのだが、性格の悪さがそれを補ってあまりあるので気にならない。
「は、はじめまして。三年の森川知世です。ええと、話は春日から聞いたと思うけど。どこかで話そうか。あの、近くに喫茶店もあることだし」
 おたおたしながら頬を赤らめ、しどろもどろな知世を見守る玲の眼は、うっすらと笑いを含む。もちろんひやかす笑みである。
「さ、行こうか。こいつのおごりだからって、遠慮する必要はこれっぽっちもないぞ。な、森川?」
「……ああ、そう。そういう話になっていたわけか……」

 一行は、「ハーツイーズ」に向かった。れんがづくりのこじゃれた喫茶店だ。すみれのモチーフが店内や食器などのところどころにあしらわれている。値段が良心的な点もみのがせない、貴重なスポットである。
 閑話休題。
 知世はこの近隣の出身ではない。その彼が桜花高校に進学を決めたきっかけは、十年前にさかのぼる。
 外祖父の法事のため、知世は両親にともなわれて母の実家を訪れた。法事とはいえ、三十三回忌の弔い上げで、肩のこらない気楽なものだった。
 自宅に帰るまでに、多少の時間があいた。
 ちょうどそのころ、近所の高校で、演劇部の発表会が催されていた。かなり本格的かつ有名なもので、毎年大勢の観客を動員しているという。
 いとこたちと一緒に見に行ったのは、別に演劇に興味があったからではないのだが、芝居と、生徒たちの熱演にすこぶる感動した知世は、この高校に入り、演劇をする決意を固めたのである。
 それが桜花高校だったのは言うまでもない。
 しかし、情熱は正しく報われなかった。入学するまさに直前、演劇部が廃止されたのである。
 何とか演劇部を復活させようと、知世は同好会を発足させた。メンバーは知世ひとり。減りはしないがいまだに増えない。
 人数を増やし、実績をしめさなくては、部に昇格できない。部費もおりない。しかし同好会の身では、公然たる会員募集すら生徒会に禁じられているのだ。
「生徒会長が、ほんとに悪辣きわまるやつなんだ。専横をほしいままにしているあいつに、眼にもの見せてやるためにも、きみの力が必要なんだよ」
 ひたむきにかきくどく知世。
 瑞樹はいっこうに心を動かされたように見えなかった。表情乏しく、反応鈍く、言葉少なに椅子に腰かけている。ととのった容姿とあいまって、あたかも、等身大の人形のようだ。
 知世はいたく落胆した。またもや玉砕なのか。これまでの苦い経験が脳裏を去来して、情けない思いで玲に視線を移した。
 玲は我関せずとばかりに、あんみつを口に運んでいたが、やおら鞄から文庫本を取り出すと、ひらいて瑞樹にさしだした。
「芝居の台詞だと思って、ここのところを言ってごらん。自分なりにでいいから」
 のちに知世に語ったところによると、どんなに下手な棒読みであっても、ほめてほめてほめちぎり、きみには才能があると断言してその気にさせる心づもりだったとか。
 そんなあざとい作戦を立てた玲も、予想だにしなかったことが起こった。
 瑞樹がうつむいた。そのまま動かなくなる。
「あれ、どうしたの? 眠っちゃった?」
 あやしんだ知世がのぞきこむのと同時に顔を上げた。
 至近距離でまともに眼を合わせてしまった知世は、見苦しいほど動揺したが、ふと相手の態度に当惑した。
「どうかしたのかい」
「うそつき」
 やにわに瑞樹が叫んだ。知世は文字通りのけぞって、あわやティーカップを倒しかけた。およそ音楽的とは言えない、派手な音が響きわたる。店内の人間がいっせいに振り向いた。
 みるみる眼をうるませ、頬に血をのぼらせて、瑞樹はなおもなじった。
「うそつき。信じていたのに」
 唇をわななかせて、知世をはったとにらみすえる。涙がぽろぽろこぼれ落ちた。
 知世はあっけにとられ、しばしの間黙りこくった。ここまで熱演してくれるとは、つゆ思わなかったので。
「きみ、演劇の経験、ないはずだったよね?」
 知世が確認すると、瑞樹の表情はたちまちもとの人形のそれにもどった。
「だめですか」
「え」
「はいれないですか」
「は、入りたいの?」
 それどころか、やる気まんまんなのかも知れない。もしかするとひょっとすると。本当に?
 玲は、テーブルに置かれていた勘定書きで、ぽんと知世のおでこをたたいた。
「これで決まりだな。ところでおれ、今日持ち合わせがないんだよな。お前払っておいてくれるだろ」
「なんだよみずくさい。おれにおごらせてよ、お前のぶんも」
「そうか、では遠慮なく」
 いやにあっさり財布をひっこめた。
 いい人材にめぐりあえたのは、玲のおかげなのだ。知世は、感謝の気持ちと幸福感でいっぱいだった。有頂天ここにきわまり、意識が宇宙の果てまでふっとんでいた。
 会計の際、玲があんみつのほかに、抹茶パフェデラックスと桜風味プリンと豆乳チーズケーキをたいらげていたことに気づくまで。
 翌日は、昼食もきっちり請求されることだろう。

 こうして、桜花高校の演劇同好会は、初の新入会員を迎えることになった。会長の知世は、喜びに勇み立っている。
 と言いたいところだが。
 よからぬうわさが知世を悩ますようになるまで、二日とかからなかった。
 知世が甘言を弄して、瑞樹に迫ろうとしたというのである。あのとき喫茶店で、はたからそう見えたとしても致し方ない。
「ハーツイーズ」は、放課後の生徒たちの溜まり場である。目撃者はかなりの数にのぼった。
「玲、口添えしてくれよう、誤解だって」
 知世は困りきって懇願した。
「いちがいに誤りとは言えないな」
 返答は取りつく島もない。
「何を言う。お前がまいたたねだろうが」
 業を煮やした知世が主張しても、
「そうだったっけ?」
 あくまでもそらとぼけ、救いの手をさしのべる気などさらさらない。知世の窮地をとことん観賞するかまえだ。
 ああ、一瞬でも忘れてしまった自分が愚かしい。春日玲が、そんな薄情者だということを……。

20040621
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