ふるふる図書館


第二話 薔薇と頭痛



 学園の初等部と高等部は、同じ敷地内にある。だから、初等部の碧と高等部の紫が顔を合わせるのは、ままあること。
 昇降口を出た碧は、姉の声で名を呼ばれて振り返り、紫の隣に立つ少女を見て青白い頬を強ばらせた。
「ちょうどよかったわ。今から茜さんと駅前の喫茶店に行くのよ。碧さんもいかが」
 妹の表情の変化に頓着せずに、紫はおっとりと微笑んだ。それは碧にとって魅惑的にすぎる誘いだった。初等部の学童は放課後、喫茶店に出入りしてはいけないという決まりがある。制服姿のままなど、言語道断である。だが、高等部の姉が同伴なら許可されるのだ。紫の提案に否やはないはずだった。ただ、紫の友人という茜の存在さえなければ。
 ああしかし、喫茶店へ行こうなどという秘密めかして大人びた提案は、茜がいてこそのものだっただろう。紫は道草を食わずに帰宅するのが習慣だ。たとえ気に入りの書肆や文具屋といった健全すぎる店舗であろうとも、通常は寄り道など断じてしない。
 淡紅色の唇を引き結んでから、碧は決意した。
「行くわ」
 返答を聞くと紫はうれしそうだったが、茜の表情は碧にはわからなかった。そちらを一瞥もしなかったからだ。
 そう、このまま何事もないようにやりすごしてしまえばいいんだわ。気にしなければいないも同然だもの。それにわたしには、お姉さまがついているわ。
 碧が心の中で一方的に結んだ紳士協定は、しかしあっけなく破られた。日時計のわきを過ぎ、風見鶏の影が淡く落ちる石畳を黒い革靴で踏みしめて中庭を越えたところ、校門にさしかかりもしないうちに、紫が立ち止まったのだ。
「いけない。わたし、教室に忘れ物をしたわ。ごめんなさい。取って来るからここで待ってて」
 この姉のうっかりぶりは、わざとなのではないだろうかと碧は疑い、ふつふつと怒りが沸き起こりさえした。こめかみを内部から頭痛がノックする。
「わたしもついて行く」
「だめよ、あなたが高等部に入るのはよくないわ」
「どうしても行きたいの、お姉さまは」
「ええ。明日までの課題を終えるのに必要なの」
「じゃあ帰るわ。とてもじゃないけれど待てないもの」
 このひととふたりでは。
 紫は困ったように笑って、妹の、自分とそっくりな長い黒髪をなでた。
「ほんとうにもう。その人見知り、直しなさいね」
「人見知りなんかじゃ、ないわ」
 心外だ。碧にとって至極もっともな反駁は、事情を知らない紫には通用しなかった。
「とにかく。急いで戻ってくるから。ね」
 きびすを返して去っていく姉の速度は、どう見ても、初等部の一等駆け足の早い子にも負けている。だが、体の弱い碧は全力で走った経験すらないのだから、ひとのことは言えない。
 ふくれたまま、姉を見送っていた碧の耳に、くすりとした忍び笑いが届いた。
「可愛いわね、」
 碧の心臓が左胸で爆ぜた。血の気の少ない頬にたちまち火がつく。
「紫さんって」
 茜がほめた相手が紫のことだとわかるや、碧はくるりと年上の少女に向き直った。
「ずるいわ」
 高飛車な切り口上にも、茜は余裕の表情を崩さない。
「茜お姉さまはずるい」
「どうして」
「だって、わたしの秘密はひた隠しにしてきたものよ。でも茜お姉さまの秘密は、そんな苦労をして守ってきたものではないわ。だからずるいのよ。等価じゃないわ」
「一理あるわね」
 茜は素直に感心してみせた。その反応もまた碧の癇に障る。どういう態度を取ろうが、結局のところ茜は碧にとって癪の種なのだ。
「それじゃあ、もうひとつ秘密を見せれば碧さんは満足するかしら」
 おさまっていた心音がまたさびついた軋みを上げ、押さえこもうと碧は声を高めた。
「そんなの、ものによるわ」
「お気に召すといいのだけれど。親友の妹に嫌われたくはないわ」
 碧の鼓動がさらに加速した。
「お姉さまの親友ですって? 貴女にお姉さまは釣り合わないわ」
「そうね。釣り合うように努力しているの」
 あっさり認められて勢いを削がれかけ、体勢を立て直そうと碧は言い募った。
「それにわたしはお姉さまの付属品なの? 馬鹿にしないで頂戴」
「馬鹿になんてしていないわよ。碧さんに嫌われたらわたし、哀しいもの」
「嘘」
「嘘って言ってほしいの?」
 やっぱりずるい、と碧はひそかに悔しがる。その手をひいて、茜は校舎の陰に導いた。一年を通じてひやりと冷たい碧の肌は、茜の指先の血潮をあさましいほど敏感にかぎつけた。
「いらっしゃい。秘密、見たいんでしょ」
「だけど、お姉さまが帰って来るわ」
 自分から言い出したくせに碧は戸惑った。
「彼女の足では、とうぶん戻って来れないわよ」
 無造作に答えると、人目に触れない場所で立ち止まった。少女たちの視線のみならず、陽光ですらためらいがちにおずおずとさしこんでくる一角だ。
 膝を覆い隠しているスカートの裾を茜の指がゆっくりと持ち上げていく。黒いストッキングは大腿で途切れ、ふちにあしらわれたレースは申し訳ていどに健康的な肌を隠していた。黒い薔薇もようの繊細なレース。碧は小さくのどを鳴らして、おののきを飲みこんだ。頭痛がゆるやかに脳髄に広がる。その理由を意識のすみで了解した。ここは薔薇の生垣。早咲きの薔薇が濃密な香りを惜しげもなく振りまき、空気ごと碧をくまなく蹂躙しているのだった。
 それとも、碧が見下ろす優美な黒い薔薇の芳香かもしれない。それは真鍮の鳩目で幾重にも頭蓋に留めつけられていく。
 可憐で精緻で温度のない人工の花びらに慎ましく歯を立てている靴下留めの先は、きれいにプレスされたスカートのひだの彼方に消えていた。
 茜がまたくすりと声をもらした。
「そこから見えるの?」
 茜は同年代の少女に比べたら長身で、碧は小柄なほうである。しかし、その位置では「秘密」は見えないと暗にほのめかしているのだ。碧は素直に背をかがめかけ、不意に我に返った。誘われるままにその場に膝をつくことが、突然馬鹿げてきたのだ。はしたなさをさらしているのは相手だというのに、辱めを受けたような気持ちが襲った。
 まるでわたし、蜜とみれば見境なく花びらの中にもぐりこむ蝶だわ。
 心の独白を読んだかのように茜が言った。
「わたしの薔薇は誰にでも花びらをほころばせるわけではないのよ」
 どんなに貞淑ぶったって碧は知っている。茜は美しくて華やかで誰にもつかまらない、軽はずみな蝶。きらめく鱗粉をこぼしながら思わせぶりに虚空を舞う蝶。胸もとに刻まれた図柄が何よりの証だ。
「あら、見ないの?」
 直立した碧に茜が問う。
「そろそろお姉さまが来るわ」
 衣服の奥にひそやかに息づいているはずの、うっすら汗ばみ、しっとりとした湿気をまとった薔薇を確かめたい。その気持ちをふりきり、碧は太陽の乱暴な愛撫のもとに戻った。清潔な、染みひとつない真っ白いハイソックスに包まれた足を交互に動かして。
 ひそやかにまとわりつく薔薇の香りが、癖のない黒髪と紺のスカーフとを揶揄するように甘く揺さぶる。背後で茜がどんな笑みを浮かべているのか、碧は知りたくなかった。

20090606
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