ふるふる図書館


第一話 蝶と眼帯



 はるかかなたまでつづく、まばゆい銀世界を思い出した。ストックで白い平原をつついて穴をあけると、その奥にあおいかがやきがかくれていたのがおもしろくてたのしくて、飽きもせずに突いた、そんな幼い遊びも。
 うつくしく澄みきっている白目は、白をとおりこしてあおくさえみえる。あかるいはずなのに、翳のように感じるのは、きっとあの雪原と同じ原理なのだと茜(あかね)は考えた。
 ふりむいた少女の白目を突きたいという衝動に駆られたのも、きっと、小さなころに連れられて行った異国の景色が強くやきついているからにちがいなかった。
「貴女、碧(みどり)さんでしょう」
 茜のことばは問いかけではなくたんなる確認にすぎない。
「お姉さまのお友だちですか」
 突然の闖入者に名前を呼びかけられるぶしつけさに眉を寄せる碧へ、平然と茜はうなずいた。
「紫(ゆかり)は買い物に出かけたわ。お茶を切らしていたのですって。客をひとりにしておくなんて、ひどいわよね。だから貴女、紫が戻るまで相手をして頂戴」
 見ず知らずで初対面の少女の私室に無断で入りこむ正当性がまったくないことを百も承知で言うからたちがわるい。
「わたしのこと、お姉さまからお聞きになったのですね。歳の離れた、体が弱くてわがままな妹がいるって。それで興味をひかれたのでしょう」
 雪原に囲まれたひとみがきらきらと強いひかりを放っていた。髪とおなじ、しっとりとつややかな黒。あおみがかった黒、けっして闇に同化しようとしない黒だ。
「何をしていたの。宿題、それとも交換日記かな」
 つけつけとした碧のくちぶりにも頓着しない茜は、机に向かっている碧のそばに寄り、かがんで手もとをのぞきこんだ。碧はノートブックをすばやく閉じた。
「秘密なの」
「いいえ。自己紹介もしてくださらない人に見せたくないだけです」
 そっけなく言いさした碧が、ふと息をのんだ。顔をわずかにこわばらせ、おそるおそる声を出す。
「……虫?」
「ああ、見えたのね」
 ささやき声で問いを押し出す碧に、茜は落ち着き払って笑った。
 セーラー服の襟の奥、胸もとがのぞける体勢をとっていた茜がこころもち背中をのばしたので、碧の視界からそれは消えた。
「見えなかったわ」
「見たいの」
「見たいわ」
「秘密よ」
 茜はいじわるい笑みを浮かべた。
「貴女が秘密を見せてくれたら、わたしも秘密を見せてあげる。誰かに話されたらいけないもの」
 秘密、とつぶやいて碧は困惑した視線を落とした。ノートブックはすでに、秘密でないと言い切ったばかりだ。
 いともあっさりと、かけた網にとらえられた年下の少女を眺め、茜はひそかに悦に入った。相手は、子どもなのだ。賢しくてわがままそうなのに素直で育ちがよくて、 まっすぐな。
「ほら、あるでしょう」
 茜は碧の右目を指さきでさした。碧は目をみひらく。白い翳、黒い光、それらにいろどられているのは左目だけ。碧の右目はおおわれて隠されている。白い、白い、白でしかない眼帯に。
「これを、見たいなんて」
 変わっていますねというひびきを隠そうともせず碧は言う。
「いやならいいのよ」
「みにくいから。きっとがっかりするわ」
「あら。みにくいって思われたくないのね。がっかりされたくないのね。わたしに」
「そんなことは」
「うれしい、碧さんがそう思ってくれるなんて」
 碧の抗弁にまるで耳を貸さない。
「ご心配なく。もしほんのちょっぴりでも失望なんてしたら、針を千本のむわよ」
「そう。それならぜひのませてみたいですわ」
 碧はゆっくりと眼帯に手をかけた。顔をよこぎるひもがはずれ、素顔が茜の前にさらされた。
 失明は光をうしなうというけれど、それは文字どおりの意味だと茜は思った。
 くらくて黒くて、すべての色あらゆる光がそこにこめられつめられ塗りつぶされている、深い深い闇。
 感情のない魚のような瞳。
 茜が無言でひたすら凝視していると、碧はふいと視線を伏せようとした。
「そのまま」
 茜は手のひらをのばし、左目をおおった。右目はひらかれている。視覚がない右目のみがあらわになっている、碧にはなにも見えていない。
 光をひたすら貪欲に吸い尽くしはねかえすことをしない眼球に顔を寄せた。
「あっ」
 ちいさい叫びとともに、まつげが舌先をかすめた。碧のまぶたがまばたきをしたのだ。
 たちまち光のかわりにしずくがたまり、ひとすじの軌跡をえがいて頬をすべり落ちていった。
「痛かったの」
「いいえ」
「おどろいたの」
「生理的なものよ。そんなところをさわられたら、目が潤んでしまうわ。おかしなことをなさるのね」
 手をはなして茜は笑った。
「きれいだからよ。だからつつきたくなったの。おいしそうだから味わいたくなったの」
 どの部位が自分の瞳をかすめたのか察した碧は、あっけにとられた表情を浮かべて茜のくちもとをまじまじと見つめた。これでは針を一本たりとものませることなどできない。
「ね、その涙、飲ませて」
 ふたたび舌を差し出して碧に寄せると透明な珠をすくいとった。
「どうして」
「きれいだから」
 碧の顔が紅潮している意味が、怒りなのか恥ずかしさなのか気にもかけない。むしろはにかんでいるのだと解釈できるところが茜らしいところである。
「おかしなひとね」
 碧がありったけの非難をかき集めてにらみつけても、照れ隠しだとしか解釈できない茜にはなんの効力もない。
「さあ、もういいでしょう。お姉さまの秘密を見せてくださいな」
 眼帯をもとどおりにはめた碧にうながされて、茜はもったいぶった手つきで制服のスカーフをほどいた。おもむろにはだけた胸に、碧が眼をみはった。
 胸の中央に、黒蝶が羽をひろげている。白磁の肌に精緻に彫りこまれた刺青。
「さわっても、いいですか」
「もちろん」
 碧は指先をそっと差し伸べた。しかし蝶に触れたのはひややかでほっそりとしなやかな指ではなくて。
「あら。おかえし」
「いいえ、しかえしです」
「なぜ」
「きれいだったからよ」
 そう言うと、目のふちを赤らめて、碧はそっぽを向いた。
「碧さん。鱗粉がついているわ」
「えっ」
 あわてたようすで碧がくちびるをおおった。茜はくすくすと笑った。
「うそよ。ほんものの蝶じゃないのだもの。無害よ」
 たちまち口惜しそうな表情を浮かべる碧は、茜の術中にまんまとはまっている。もちろん無害であるはずがない。
 控えめなノックの音が、ふたりの会話を断ち切った。
「茜さんったら、ここにいたの」
 紫がドアをひらくまでに、ぬかりなく、茜は着衣をととのえていた。いつのまに、という碧の視線をきれいに流して、
「紫さん。遅かったのね」
 花がふわりとほころぶように楚々と微笑む。
「碧さんに相手をしてもらっていたのよ。ね」
 碧に向けるのは、共犯者のまなざしだ。
「おじゃましてしまったわね。碧さん有難う。それでは、またね。ごきげんよう」
 清楚そのものといった立ち居振る舞いで紫と連れ立って去っていく茜の後姿を、碧はやや呆然と見守った。
 今までのは、まぼろし? まじめでやさしいお姉さまのお友だちが、あんなひとであるわけがないわ。それともただ、からかわれただけなのかしらと碧はいぶかった。
「またね、って言った……また、会えるのかしら。そうしたら、ぜったいに正体をつきとめてやるわ」
 眼帯の上から右目をおさえた。かすかにうずく。
「見ていらっしゃい、茜お姉さま」
 知ったばかりの名前をつぶやいたら、さらにうずいた。それがなんだか不思議とこころよく、碧はひとりけげんな顔をする。

20081102
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